今日から無期雇用社員になりました
就活といっても、もう遠い昔の話。やりがいも潤沢な給与も要らないから安定した雇用だけを求めて寄らば大樹の大企業に入社してはや幾星霜。
確かに、クビも倒産もなかったけれども、代わりに待っていたのは地獄のような繁忙転勤。
行く先々で余所者扱いされるのはまだ良いほうで、「もうお前は永久に地元に帰らずこの澱んだ田舎町で暮らしてここに骨を埋めろ」とばかりの恫喝じみた無言の圧力にさらされ、気候の違いや田舎の閉鎖性などに疲れ果てて退社。
やっと今の会社に拾ってもらって転勤のない契約社員としてつとめだして5年。晴れて定年までこのまま働ることができる「無期雇用社員」になりました。
雇用の流動化をやってはみたものの、社会混乱を招いただけだったのだと思いますし、安倍政権時代に実現した各種政策の中では評価に値するものだと思います。
あらためて90年台の就職氷河期と中高年リストラの憂き目に遭った人は気の毒だと思います。特に氷河期世代に対しては何らかのポジティブアクションを行って、救済手段を講じないと、新たな社会不安を招くだけだと思います。
そういうわけで、今日は自分にとっても復活祭(イースター)になりました。
ウィントン・マルサリスがいかに素晴らしいか(またはつまらないか)に関する件
ウィントン・マルサリスは押しも押されぬモダンジャズの巨人と目されながら日本では皆目人気がない、場合によっては無視に近い扱いを受けている件について、自分も実はあまり彼の演奏が好きではなかったのですが、聴かず嫌いなのかもしれないと思って、改めて本気でマルサリスの全作を聴いてみました。
通常、評論家でもない人間が大して興味のないミュージシャンの作品全部を聴くなどというのはCD時代には金銭的に不可能なことでしたが、そこは天下の音楽配信サービスSpotifyのおかげで可能になりました。
その前に、まずウィントンがデビューした頃(80年台)の日本のジャズ受容の状況について回顧とともに、書いてみます。
マイルスとウィントンとスイングジャーナルの日々
1980年台、いわゆる電気ジャズが隆盛を極めており、「日本人が聴きたい4ビートアコースティックメインストリーム(?)ジャズ」なるものは、もはや日本企画で海外ミュージシャンに演奏してもらう以外に方法がないという状態でした。
当時の私、今にして思えば消えかかったろうそくのような存在だった薄暗いジャズ喫茶で日々を過ごす学生でしたが、そういう店には必ず常備されていたスイングジャーナル誌から得られる新譜情報が唯一の情報源でした。
そこで紹介されている「新譜」は、本国アメリカでは数千枚しか売れていないんじゃなかろうかという極めてマイナーなブルーノート復刻レコード、復帰したマイルスとウィントンの方向性の違いの論談、そして日本企画のジャズアルバム礼賛でした。(例外として、キース・ジャレットのスタンダーズトリオもありましたね。「キースがやっと正気に戻ったw」みたいな論評でした。)
マイルス・デイビスは復帰したとはいっても本調子ではなく、復帰第一作「マン・ウィズ・ホーン」の最終曲「アーシュラ」がたまたま4ビートナンバーだったので、「いよいよマイルスがアコースティックに戻る!」「60年台クインテット復活か!」などという憶測が流れては消えていきました。
さらについでに、80年台にちょっとしたブームだったウインダムヒルレーベルのアルバム(今でいうヒーリング/ニューエイジのような音楽)も、扱ってくれる雑誌がないものだから、仕方がなくスイングジャーナル誌が特集していました。当然クソミソにけなされていましたが。
マイルスVSウィントンの対決(のようなもの)については、いろいろと談義がされていましたが、ウィントンの音楽に対する不評の内訳は次のようなものでした。
・音数が多すぎる。
・上手ければよいというものではない
・アコースティックジャズだけれどもメインストリームじゃない
・若造である(レコード鑑賞の文化が長い日本人は伝説の巨匠が好き)
どれも一理あるのですが、ウィントンのトランペット奏法がジャズ界では前代未聞なものも多かったですし、クラシック演奏でも達人でしたから、やはり生粋のジャズファンには嫌われる要素が満載だったとしかいえず、スイングジャーナルの人気投票でもトランペット部門の第一位はマイルス・デイヴィスが譲らなかったはずです。
ウィントン・マルサリスの新しい聴き方の発見
ウィントンのトランペットの技量を堪能するには、リー・モーガンやクリフォード・ブラウンやマイルス・デイヴィスと同列に並べるのではなく、クラシック方面の名手の演奏と比較すると、意外なことにしっくりと耳に入るのです。
・アリソン・バルサム
・ホーケン・ハイデンベルガー
・セルゲイ・ナカリャコフ
・ティーネ・ティング・ヘルセット
・マルクス・シュトックハウゼン(この人はジャンルが不明ですがECM系とでも言えばよいかと)
など。
これらの人々の演奏といっしょにウィントンの音源を片っ端からプレイリストに入れて聴いてみますと、ウィントンの超絶技巧がジャズという形の中でどう表現されるのかがわかります。
試しに1曲、このもっぱらバラードヴォーカルとして演奏されることの多い「エンジェル・アイズ」
相当長いトランペットのカデンツァが置かれたあと、ピアノのみの伴奏で一応のバラード演奏としてテーマ吹奏。リズム隊が割りと派手に入ってきて、そのままアップテンポのソロパートに入ったあと、やはりカデンツァで締めて終わるというものです。
そのほか、どの演奏だったか忘れましたが、リップスラーとフラッタータンギングとカップミュート開閉の絶妙な組み合わせでほぼ同じ音程を延々と吹いてみせたり、相当に計算されたハーフバルブ(?)をカマしたりと、たいていの人はこういうジャズトランペットを聴いたことがないものだから、そりゃそう簡単に惚れ込めません。
あと、話題になった「世界最速チェロキー」はこちら。(余談ですがこのトランペット変わった仕様ですね)
リンカーン・センター・ジャズ・オーケストラについて
ウィントンが音楽監督を勤めるこのオーケストラではアフロ・キューバンジャズやゴスペル、モンク作品集、コルトレーンの「至上の愛」のリメイクなど、さまざまなことをやっているわけですが、まっさきに聴いたアフロキューバンジャズアルバム「Live in Cuba」を聴いて真っ先に思ったことは、「ああ、ウィントンにはジャズに対するこだわりみたいなものがないんだね」ということです。
オーケストラだからウィントンの演奏かどうか定かではないのですが、かつてのガレスピーのように音圧最強音量最大でハイノートを出していて、ウィントンの技量をもってすれば、わざわざそういう奏法をしなくても普通にハイノートが出せるはずなので、「この音楽にはこういうハイノートが必要だから使っている」というように聴こえます。
この辺が村上春樹をして「前戯ばっかりうまい男みたいで信用ならん」と云わしめるところなのでしょう。
それで私はウィントンを好きになったか
クラシック音楽、現代音楽またはアメリカ古典音楽として聴くと楽しめるというのが正直な感想です。では、「ジャズではない」のかといえば、おそらく多くの日本人が好んで聴くジャズではありませんし、そういうのは50年台から親しまれてきた膨大なジャズアルバムが今もリマスターを重ねて販売されているのですから、日本のジャズファンはそういうアルバムをずっと聴いていればよいのでしょう。
とくに結論らしきものも出なかったので、日本人にこよなく愛されているケニー・ドーハムの「マイ・アイディアル」と、同じ曲をウィントンが吹いたものを比較試聴してこの文章を締めたいと思います。
私的平成史(平成の世に現れて平成の世に消える予定のもの)前編
時代や世代を語るのに、もはや元号はあまり意味がなく何か特別な事情がない限り西暦で呼び習わしたほうが便利であるとはいえ、かりそめにも國體が護持された以上、元号をやめるわけにもいかないので、「平成の世に現れて平成の世に消えていくもの」を中心に、自分の思うところを語りたいと思います。
湾岸戦争(平成2年 1990年)
イラクをのクウェート進出に伴いアメリカを中心とした多国籍軍が武力行使に踏み切った際、日本がいかにして国際協力を果たせるのかという課題が重くのしかかった事件でした。
当時は、自衛隊の海外派遣に先例がなく、戦後復興の際には民間有志を募って現地入りするべくそのための極秘リストが作られているのではないかという噂がさかんに立てられましたが、それは杞憂で、結局カネだけ出して感謝されずという、直接には外務省の失態でした。もっともいわゆるバブル景気で浮かれていた日本人には馬耳東風でしたが。
現在は、ひとまず自衛隊が海外派遣に行くことに関しては法的な問題はクリアしているようなので、あとは個々人の信条で賛成か反対かがあるだけです。
平成米騒動(平成5年 1993年)
記録的な冷夏によるコメの不作に便乗したかなり作為的な騒動。
米価は秋口から少しずつ上昇を始めた。細川内閣は9月、260万トンをタイ王国、中華人民共和国、アメリカ合衆国から「緊急輸入を行う」と発表した。
しかし当時は、日本人がいわゆる和食の原点回帰や、食生活・食料品の安全などに強い関心を向け始めた時代でもあり、ポストハーベスト農薬など、輸入農作物に対する不信感も根強く、輸入米に対しての警戒心も消費者に見られた。
日本産のジャポニカ米は根強い人気のため、また市場の品薄感もあって、買い占めと売り惜しみが発生、米屋の店頭から「米が消える事態」にまで発展する。1994年(平成6年)の年明けには米屋の前に行列が延々と続くなどの社会現象が発生した。
騒いだのは主として当時の50歳以上の人たちであって、若い人は「コメがなければパンでも蕎麦でもパスタでもあるでしょう?」といたって冷静。
特にタイから輸入したインディカ米の独特の匂いは和食には不向きで大不評。タイの皆さんには大変失礼なことをしました。今ではジャンバラヤにして食べたり、タイカリーに使ったりしてちゃんと堪能しております。
阪神淡路大震災とオウム地下鉄サリン事件(平成7年 1995年)
バブルの余波の浮かれ気分を一気に吹き飛ばした大事件。この頃、団塊ジュニアがボチボチ社会人になりだすも、就職氷河期も始まりつつあり、時代の空気が一変した年となりました。
Windows95とインターネットブーム(平成8年 1996年)
それまで「マニアの高価なオモチャ」とされてきたPCが急速に普及。主な用途はウェブ閲覧とメールと年賀状作成。また、ごく初期にはMicrosoft Word Excelがプリインストールされていたため、Excelで仕事の効率化を図ろうと切磋琢磨したのは良いですが、仕様の悪いファイルが量産されたため、逆に生産性は下がったと思います。
スマオートフォンとタブレット全盛の現在、未だにこういうものが蔓延っていますが、次の元号にはPCもExcelも廃れるでしょう。
前任者の作るエクセルのファイルが酷い : キャリア・職場 : 発言小町 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)
音楽録音メディアの盛衰(1990年台~現在)
稼ぎの大半を音楽ソフトにつぎ込んで良いという人は別として、大抵の人は限られた予算の中で音楽ソフトを買い、なおかつ聴きたいものがある場合にはラジオのエアチェック(死語)や音楽ソフトのダビングで楽しんでいました。
LPレコードの時代には、カセットテープが主流でしたが、その後、CD時代と並行するようにヒスノイズが低減されたMD(MiniDisk)が登場。プロ向けの録音メディアはDATという布陣になりましたが、MDは日本以外では普及せず、PCの登場ととともにCDへのコピーまたはハードディスクへの取り込みが主流となり、MDもDATも市場から退出してしまいました。
CDのコピーを不可能にするCCCDなるものもありましたが、MDもCCCDもAppleのiPodが駆逐。
そして現在、音楽は配信で聴かれるようになり、もはやメディアを必要としなくなったようです。
Y2Kとノストラダムス予言(1999年 平成11年)
コンピュータの日付が西暦下二桁で管理していることによって、ありとあらゆる機器が2000年になると時間が100年前に戻り、航空機が落ちたり、原子炉が爆発したり、インフラが止まったりするなどという風説が流れました。
同時に、1999年の7月に人類が滅亡するというノストラダムスの大予言がいよいよ間近に迫り、他方でミレニアム祭りの準備が行われるという、世にも珍しい年になりました。
スーパーでは乾電池や乾パンが売られており、非常時気分を盛り上げたものの結果は何もなし。個別にY2Kの異常動作は起きていましたが、それはシステムを廃棄するなりなんなりの代替措置が取られていたようです。
Y2Kの不安を煽っていたのは、ITエンジニアではなく何ら提案能力のないIT営業がネタ切れの苦し紛れに吹聴して歩いていたような実態だったようで、その人達は現在凝りもせず「IoT時代に向けての情報戦略は立てていますか」とか「ビッグデータ活用に乗り遅れていませんか」とか「改正個人情報保護法の対応はお済みですか」などという不安商売に精を出しているものと思われます。
家電量販店とわたし(モノとの関わりを考える)
すでに多くの人が指摘していることをまざまざと実感してきたのでそのことを書いてみます。
面白くない家電量販店
我が家の近所には、かつて公正取引委員会から排除命令を出された某家電量販店があり、暇つぶしのため時折立ち寄りますが、私が入店してもいらっしゃいませの一言もないし、売り場の位置を聞くために店員さんを呼び止めてもイヤな顔をされることが多いのですっかり憤慨しています。
スケルトンのiMacが売られていた頃は楽しかった家電量販店が、すっかり見るべきものがなくなっているのは何か理由があるに違いないということで、客層と商品をよく見ていると、わりと単純かつ再帰的な理由がわかりました。
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家電量販店は家電を売っているだけなのだ(体験を売っていない)
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「ガラパゴス家電」という言葉に象徴されるように、意図的におこげを作る高機能炊飯器やドアを空けなくても中の様子が見える冷蔵庫など、ニーズそのものはあるにしても、わざわざそのために数十万円の金を払うのはお年寄りしかいません。
私がその家電量販店から冷たくされるのは私がまだ老人ではない(あるいは自分で商品の善し悪しがわかる)から、どうせAmazonで買うであろう「冷やかし」とみなされているということです。
AirPodsとGooglehome
その同じ家電量販店で私はAppleのAirPodsとGoogleのAIスピーカーGoogle homeを買いました。これらはイヤフォンやスピーカーであることに変わりはありませんが、それ本来の機能よりも「音声デバイス」として使うべきものです。
AirPodsはSiri入力デバイス兼通話ヘッドセット兼イヤホンでもあるわけですが、ケースの蓋を開けて既知のデバイスとのペアリング接続が完了し、両耳装着でリスニング状態、片耳外しで一時停止、両耳を外して完全停止となります。
音楽鑑賞中に話しかけられたときには、片耳だけ外せばよく、ペアリング済みの別デバイスにつなぎ替えるときにも元のデバイスでのペアリング解除は必要ありません。
「便利だ」というだけではなく、音楽なり映画なりの鑑賞という「体験」に集中することに価値があります。
Google Homeは現在のところ家電との連携が流行らない限り能力を全部発揮することはできませんが、寝床ラジオや目覚まし時計としての能力は十分です。
まさしく「体験」そのものです。
これらの製品は概してスマートなのであまり目立つところに置いていませんし、大型テレビなどに比べれば「屁」みたいに安いものなので店員はあまり売る気がないようです。
家電量販店は団塊世代があの世に行った後何を売るのだろう
ホントこれです。現在ドラッグストアや洋酒コーナーも併設しているわけですが、おそらくAmazonなどの取次くらいしかすることがないのではないでしょうか。
かつて地デジとエコポイント特需で儲けたものの、東京オリンピックが終わったあとは徐々に衰退すると思います。
さて、その某家電量販店ですが、市内中心部の店舗はすっかりリサイクル家電専門となっていました。そういう販路もあると思わます。
また、AppleWatchがLTE通信専用にeSIMを搭載したこともあって、各種キャリアや格安スマホがそっちに流れるのなら手続きのための代理店としての役割もありそうです。
中世音楽講座受講報告 (そして私は近代主義が嫌いだ)
ルドン絢子先生の中世音楽講座を3回に分けて受講してきましたので、その感想と自分なりに考えたことを取り留めなく書いてみようと思います。
私は普通の五線譜もマトモに読めない(正確には調号が出た段階ですでにアウト)ドシロートなわけで、本来こうした講座を受講するには知識足らずであろうと思ったのですが、ルドン先生も「演奏家ではないのだから何か知識を得て帰ってくれればよいです。」とのことでしたので、将来何かの役に立つかもしれません。
一般に「お稽古ごと」となると、圧倒的に女性ばかりで男性の居場所がないのですが、こちらは大学の講座ですから男女半々くらいで、しかも英単語帳のようなものにビッシリとラテン語典礼文を書いてきて照合している勉学熱心な方々もおり、久々に向学心に燃えてきた次第です。
以下、特に脈絡なく記載してみます。
バッハ以前の音楽が知られるようになったのは戦後である
クラシック音楽を聴く楽しみというのは戦前からあるわけですが、概ね金持ちないし教養主義者の道楽であって、しかも西洋音楽史がいきなりバッハから始まっていたようです。(古い音楽教科書ではバッハを古典派として扱っていたりするものがありますし、そのバッハも19世紀半ばに「再発見」された人です。)
よってこの世界観によれば、バッハが造物主のように存在して、モーツァルトやハイドンなどが周辺を舞う天使で、満を持して生誕したベートーヴェンが楽聖として戴冠するという音楽史になり、そして19世紀末でクラシック音楽は終わりとなります。
この世界観を改めたのは皆川達夫氏であって、長らく「バロック音楽の楽しみ」というラジオ番組で解説を務めたことなどが奏功して現在に至ります。
クラオタにとって中世音楽も現代音楽もゲテモノである
クラシックオタク(通称「クラオタ」)と呼ばれる人たちは、おそらく私の家のステレオ装置の値段より桁が一つ二つ多いオーディオシステムを持ち、自室でブランデーとシガレットを嗜みながら(?)お気に入りのレコード(CD)を聴く人々で、それはそれでステキでしょうが、彼らは自分の「神聖な」オーディオから出るべき音を厳選しているようで、中世音楽のポリフォニーや現代音楽のエレキものが許しがたいらしく、この人たちに中世音楽のことを話しても「野蛮人の音楽」だと一蹴されて終わりのような気がします。
(ちなみに、ルネサンス以前の音楽が奇異に聴こえるのは一般的な協和音(ドミソ)がまだなくて、ドソに近い不安定な響きが続くからであって、そのうちドミソの協和音が発見され、そしてミの音が半音下がるとマイナー和音の暗い響きになるわけですが、それは相当後代の発明品であるとのことです。)
クラシック音楽以外認めないという某漫画家氏がロックやジャズのことを「汗かき音楽」と読んで軽蔑していましたが、きっとこの人は交友関係が狭いのだと思います。
You TubeとSpotifyは予習復習に役に立つ
一昔前なら考えられないことですが、講座の教材音源の大半はYou TubeまたはiTunesの音源であり、聴くべき中世音楽アンサンブルのご紹介をいただき、皆メモ(ではなくて、黒板に書かれたものの写真)をiPhoneで撮っていました。
家で復習するときには、それらを検索して聴けばよいのです。音楽配信サービスなるものは音楽の素朴な感動を台無しにするという批判もあるでしょうが、物事なんであれ良い面だけ、または悪い面だけということはないので、ユーザーの心がけ次第でしょう。
どこかの親切な人が音に合わせて楽譜を動かしてくれているので、何度も復習するには相当良いと思います。
Rhythmic mode - Video Learning - WizScience.com
モードリトミックとマイルス・デイヴィスのKind of Blueについて
初回の授業でモードリトミックというものを実演付きで教えていただいた次第ですが、この音形はモード・ジャズの最高峰とも云われるマイルス・デイヴィスのカインド・オブ・ブルーの各曲によく似ていて、そもそもモロにこれじゃないのだろうかと思いました。
ジャズ史と称される書物を読むと、モード・ジャズとは何であるかと説くに「理屈はよくわからんがモードだ」と話をはぐらかされるわけですが、まぁ普通にモード・ジャズの名盤をいくつか挙げておけばよいらしいです。
とにかく、カインド・オブ・ブルーの作者がすでに天国に行かれているので確かめようがないのですが、きっとモードリトミックなのだろうと勝手に決めておきます。
わりと皆さんカトリックのミサには出席したことがない
中世音楽講座なのですから、かなりの部分で宗教音楽の話になりますし、それらのラテン語典礼文をよくご存知の方が多いのですが、実際のカトリックのミサには出席したことがないらしく、要するに日本のキリスト教はそれだけ魅力がないのでしょう。
一方、キリスト教信者の方は音楽に関心がなく、あろうことかバッハの「G線上のアリア」を人に聴かせて「これ!これがキリスト教なのよ」とおっしゃる方がいるようなので、知人と次のような話をしました。
○キリスト教音楽を言うのならバッハのヨハネ受難曲でも聴かせたほいがいいんじゃないか
●いやいや、冒頭のHerr!の歌い出しで皆逃げ出すからw
○やっぱり音楽のこともキリスト教のことも知らないんだねぇ。
これはもう仕方がないことであって、彼らはミサで歌う典礼聖歌というものを音楽の授業と同じように義務的にやっているのでしょう。
今後に向けて
表題にも書いているとおり私は近代主義(正確には啓蒙主義)が嫌いです。楽譜の成立過程を学んでいたときにこれは確信に変わったのですが、最初に記譜する必要が生じて何かの工夫をし、それらが都合が悪くなれば改良していき、またあちこちの修道院で違う歌い方(記譜の仕方)をしていては都合が悪いからだんだん整理統合されていったというその課程が大事なのであって、最初から何かの理念に基づく合理性を追求してしまうと、それまでの伝統の中に包含されていた別の「実質合理性」が破壊されてしまいます。
雷や皆既日食は神の怒りでもなんでもなく自然現象であるというのは現在では自明ですが、さりとて雷の危険が去ったわけでもありません。
なにも中世の迷妄に返るべきだと言っているのではないですが、神聖なもの畏れ多いものを神秘のままにしておきたいものです。なんでもかんでも最初に合理的なお題目を掲げて、納得できなければそれをやらないというのは近代主義の悪弊です(笑)
あと、中世以前の相当にメチャクチャな典礼文や聖母マリア賛歌に藉口して何かの恋愛歌をやっていたりするものや、長く引き伸ばされた「キリエ」の上で全然別の世俗的なことを歌っているものが多数あり、西洋音楽史を学ぶ上での端緒となるお話が多数聴けました。
ルドン先生。ロン毛の後ろにカラフルなメッシュを入れたステキな方でした。また何かの機会に習いにいきたいと思います。
札幌国際芸術祭2017:なぜかシュトックハウゼン・刀根康尚・クリスチャン・マークレー
札幌芸術の森美術館で開催された札幌国際芸術祭2017に足を運んできました。
近年よくある市民参加型のアートイベントで、美術/音楽/工芸/パフォーマンス等の展示が市内各地で同時多発的に実施されています。
あまり世評は良くないようですが、この種のイベントが大人気だったら逆に奇跡ですし、今から遡ること30年前にハコモノで盛大な赤字を出した「北海道 世界食の祭典」と違って、既存のハコモノを有効利用しているだけまだ良いほうだと思います。
芸術だとお高いがアートといえば格好がいい(?)
言葉の言い換えだと思いますが、クラシック音楽(19世紀以前)や泰西名画は「芸術」で、ノイズミュージックやビデオ等を駆使すれば「アート」であるらしく、このニュアンスの違いで云う限り、「アート」のほうが娯楽寄りになって少し集客につながるようです。
とはいうものの、迫力とスケールと集客力と喫驚度においては伝説の「大阪万博1970」をしのぐものではなく、娯楽性に関してはTDLのパレードやアトラクションをしのぐものではないので、政令指定都市とはいえ一地方都市である札幌市の文化事業としてはそれなりに意義あるものだと私は思います。
まずは EYE ドッカイドー/海
このイベントに参加するには鑑賞前に待合室でサングラスをかけて15分ほど目を休ませる必要があります。上演が真っ暗な室内で行われるので、危険防止のための配慮かと思われます。
で、開演時間になってそろそろと入場。ふわふわの床マットに蓄光されたビーズが銀河系のように散乱する中、怪しい電子音楽がモワ~ンと鳴っています。
こうした音楽自体は普段から馴染んでいるので、まぁアートだから当然だなとは思ったものの、どうもどこかで聴いたことのあるフレーズがちらほらと・・・♪ウオエイウオエイ~ウェン~~~~ズデイとか言っているので、すぐに判明。
これ、シュトックハウゼンのシュティムンクですわ(笑)
とはいうものの、何かの元音源に相当な二次加工処理をしているらしく、リングモジュレータっぽい音や過剰なエコー、音高の極端な変化などがちらほらと響いていました。
そして、このイベントの楽しみ方は歩くのではなく、銀河系のような床マットを四つん這いで這いずり回るのです。
無我夢中でハイハイをしていると、なんとなく忘我の境地に近くなり、それと同時に子どもの頃には身近だった「床」と久々に対面するという不思議な体験でもありました。
これがオリジナルのシュティムンクです。
クリスチャン・マークレー 「NEW LIFE:リプレイのない展覧会」
この週末はクロージングで盛り上がる「札幌国際芸術祭2017」へ! 注目作家クリスチャン・マークレーのインタビューと必見展示をご紹介します。 | News&Topics | Pen Online
クリスチャン・マークレーといえば、一般的には「ターンテーブルの人(でもDJじゃない)」という説明しにくいタイプのアーティストで、実は私もその程度のことしか知りませんが、このイベントは上のブログ記事のほうが詳しいので、そちらをご参照いただくとして、「動いているのが不思議な産業廃棄物レベルのIT機器」を駆使して、それらが解体され鉄ゴミになっていく映像を再帰的に楽しむものとなっています。
20年くらい前のPC、ガラケー、ブラウン管モニターの中にそれらが轟々という音を立てて解体される音と情景が映し出されるわけで、実は私も工事現場とか解体工場の騒音は、短時間聴いていればノイズ・ミュージックみたいだなと思ったことがありますので、ちょっとした慧眼になりました。
補記:そういえば、昨今の音響系と呼ばれる人たちの作品にはiPhoneを使った作品が増えてきたように思います。MacBookはもうだいぶ前から使われています。
刀根康尚 IL PLEUT
あの実験音楽集団フルクサスの人です。オノヨーコさんの仲間です。生ける伝説のお方の作品をライブ(とはいっても電子音楽ですが)で堪能できるのは大変ありがたいことです。
極めて小さいスピーカー数百個を立体的に配置して、そのスピーカーから雨の音とともにフランス語と英語で「雨が降っている」「曇っている」「雨が降っていた」・・・という言葉が空間移動で走り回るというものです。
ただ、漫然と立っているだけではダメで、鑑賞者自ら室内を歩きまわることで、より空間移動の楽しみが倍増することになっています。できれば脚立などの道具があったほうがより立体的に聴こえると思いますが、さすがに展示会場にそういう無粋なモノは持ち込めないようです。
お客さんの反応
コンサートと違って出入り自由なわけですから、よくありがちな市民向けクラシックコンサートでの窮屈さに比べれば、こちらのほうが開放的で楽しめるものとなっていたようです。
ただ、楽しみ方の紹介はあったほうが良いようで、EYESの会場では「立って歩くのではなく、床を這ってみてください」とか、刀根康尚の会場では「どうぞ積極的に動き回ってみてください」という案内が欲しかったと思います。
終わりに
今回のイベントのメイン会場は、この「札幌芸術の森美術館」と、旧川を利用した「モエレ沼公園」ですが、どちらも郊外の自然環境をうまく活かした施設となっていて、たびたび繰り返して申し訳ないですが、北海道のトラウマとなっている30年前の「 北海道食の祭典」のような大失態には至っておらず、その点嬉しいところです。
実は2018年に同種のハコモノがオープンすることになっていて、こちらは市内中心部に作っていますから自然との共生はあまりテーマには上がらないようですが、有効に活かして使ってくれることを願いたいものです。
いかにしてPCを廃止するか(私的環境オールクラウド化方策)
昨年あたりから、PCのあまりのつまらなさに辟易して、CADやなビデオ編集などいわゆるワークステーション的な使い方以外、PCなんてやめてしまおうと決意して次のように計画し、その一部を実施してみた結果を書きたいと思います。
1 外部ストレージの廃止(実施済み)
今年の4月にすべて廃止して、GoogleDriveに移行済です。唯一残っているのが128GMのUSBメモリで、これはレスキュー用だからやむを得ず残してあります。
これまで所有してきた極めて重要な映像音楽ファイルについて、実際のところは配信では出ていない音源や映像ソースがあるのですけど、それほど多いわけでもないですし、特に映画などというものは一度見てしまえば当分見ないものです。
闇金ウシジマくん(映画版)も5,6回見て満足しましたし、タルコフスキーとかキューブリック、黒澤明のような巨匠の往年の名画も時々レンタルで配信されているのですから、それで良いものとします。
思い起こせば、iTunesが出たときに感動して膨大なCDを全部ハードディスクに取り込んで音盤を売ってしまい、大切に大切にバックアップを取りながら維持してきたのも今は昔。
一度割り切ってしまえばリソースと時間の無駄遣いだったという空虚な気持ちだけが残っています。
2 Bluetoothアンプの購入(導入済み)
音楽映画鑑賞はすべて配信にするということにしたわけですが、さらに馬鹿でかいわりに大して音が良くないアナログAVアンプは一切廃止することにしました。
こんな感じ。iPhoneの半分以下のサイズで、USB、アナログ、Bluetooth対応。音質も悪くないです。
もともと配信のために圧縮している音源を、さらに無線で飛ばすBluetoothは音質面でのデメリットは多々あって、実際に倍音の多い音源を出すと音が少しビビるのですけど、本気で音楽や映像を鑑賞したいときには有線ヘッドホンで聴けば良く、そういう時間は1日のうち1時間あるかないかなので、これもわりきってしまえば、ケーブル類を減らせてありがたいです。
で、聴いてみたところ決して悪くない音質で、昨今のデジタルアンプを侮るなかれという声はやはり本当だったようです。お値段3680円でしたので、この値段なら3年使って壊れても特に問題はないでしょう。
3 エンドポイントをどのように振り分けるか
目下、次のように計画し、一部はすでに導入済みです。
エンドポイント1 iPhoneSE(導入済み)
これは2016年購入ですから、あと3年は持たせる必要がありますが、当面何の問題もなく動いています。
用途は 日常生活全般。
エンドポイント2 iPad mini2(導入済み 買い替え予定)
2014年購入なので、来年後半あたりに買い替え時かと思われます。用途は読書と映画鑑賞とSNS。特にこれまでPDF化してきた電子書籍は自分の唯一の資産といってもいいくらいなので、まぁ大事にしていきたいと思います。
エンドポイント3 Amazon FireTV
これまでもっぱらPCでやってきた音楽/映像鑑賞を引き剥がすべく導入に踏み切ります。これらを切り離せば、PCで行うべき作業は端末エミュレータ操作と文章入力だけになります。
エンドポイント4 PC(現在のPCまたはChromebookなど)
KVM機能だけ残して可能ならばAmazon WorkspaceによるVDI環境に移行したいのですが、まぁ年間予算もそれなりになることだし、当面ChromeBookのようなものに移行してしまおうと思います。
これとは別途にLinux環境をクラウド上に用意して、遊んでみるということにしましょうか。
上記の目的で「さくらインターネット」のVPN(CentOSとWindows Server2012)にお試し加入してみた結果がこれです。
Windows Server2012(VPN)上で動作するTeraTermでCentOS(VPN)を動作させています。両インスタンスともさくらインターネット提供。
さすがに、ミニマルプランということで動作は緩慢です。ビジネス用途でExcelを使うのならもう少し上位のプランにしておくと良いと思います。
2020年にWindows7のサポートが切れることで、おそらく企業からの大量の放出品が出回ると思いますから、来年に期待してみましょう。