述而不作 いにしえの未来

占い師の見てきた世の中を語ります 遥か古代から続く終わりの始まりを見据えて

低音デュオ「ローテーション」CD感想 「低音」についても考えてみたの件

バリトンの松平敬さんと、チューバの橋本晋哉さんのユニット「低音デュオ」のアルバムがリリースされましたので聴いてみました。YouTubeで散発的に音源は上がっていましたが、解説とともに聴けるのはありがたいことです。

 

 

ローテーション

ローテーション

 

 

 

(1)古楽のファンと現代音楽のファンはなぜ相関性が高いか

 

少なくとも私が少年時代、つまりLPの時代には現代音楽も古楽も「一部の奇特な趣味の人が研究する音楽」であって、当時の代表的なクラシック音楽レーベルであったグラモフォンやEMIのカタログにも、まったくありませんでした。

 

しかし、時代が下って少なくともアルヴォ・ペルトの音楽が注目を浴びるようになったころには大手レコード店では、現代音楽と古楽はほとんど同じ場所に陳列されていました。

 

これは、平均律による調性が確立される前の音楽と、調性が崩壊した(表現力の限界に達した)後の音楽が、一般的にイメージされる「クラシック音楽」ではないこと、また、古楽では18世紀以降には廃れた楽器が使用されていることも多く、その響きが新奇に聞こえて面白いことなどによるのだろうと思います。

 

(2)低音楽器というもの

 

あまり深く研究したわけではないのですが、古典派の頃までは低音楽器が雄弁に語る作品はほとんどなかったように思います。ヴィヴァルディのファゴット協奏曲などはまた別として、私の知る限り低音が雄弁に語るのは次の2曲です。

 

モーツァルトの歌劇「魔笛」からザラストロのアリア

ベートーベンの交響曲第9番「合唱」から第4楽章の冒頭のコントラバス

ある意味でどちらも標題音楽だから、標題が低音を要求したなどの理由もあるのでしょうが、低音楽器の表現力は20世紀に入ってますます注目されているようで、八巻志帆さんがバスクラリネットによるアルバムを出していますし、チューバの次田心平さんも、ユーフォ奏者とのデュオで活躍しています。

ヴァイオリンやフルートのような「目立つ楽器」にはない魅力が発掘されている過程なのだと思います。

 

(3)各曲感想

 

7曲の古楽が収められていますが、チューバ(セルパン)と曲によっては各種鳴り物が同伴するので、表情が多彩です。

テキストは、近代典礼以前のとっちらかったテキストが多く使われているのが面白いです。

 

《ムジカ・エンキリアディス(音楽の手引書)》(9世紀)より:天の王よ は私が聴いた音楽の中で最も古いもののひとつです。ただ、同じくらいに古く、東方典礼の特徴をなすビザンツ帝国の野太い音楽とは相貌が異なるので、この辺の研究は私の老後の楽しみに取っておきましょう。

全能の創造主よ は、11世紀と記されており、トリエント公会議後も残るKyrie形式のテキストです。面白いことにAmborum sacrum spiramenという一文は、間違いなく、その頃に起きた教会の東西分裂の理由のひとつである神学論争「フィリオクェ問題」にまつわるので、ちょっとニヤニヤした次第。

フィリオクェ問題 - Wikipedia

 

聖マグヌス賛歌「気高く、慎ましく」は、鈴を打ち鳴らしながら歌う綺麗な曲です。こうした一定間隔で鈴を鳴らして歌う音楽は、真言宗高野山の御和讃にも見られますので、巡礼とか托鉢とかそうしたものに関連があるのかもしれません。

 

ご婦人よ見つめないでください(ギョーム・ド・マショーは、あの「ノートルダム・ミサ」のマショーです。と書くとなんのことやらわかりませんが、とにかくうねる旋律の呪術性が尋常ではなく、ヘッドホンで聴くとかなり意識が飛んでしまう音楽です。この曲は、ノートルダム・ミサほどではないですが、やはり「うねり」が凄いです。

 

7曲の現代作品は、いずれも「ことば」あるいは「発音」と音楽が一体となった作品が多く、何かの一貫した意味ある主張をするための音楽ではないという点に特徴があります。

 

山根明季子さんの「水玉コレクションNo.12」は、さまざまな擬音のテキストに基づいた歌に、チューバがぬぅっという感じで付いてくる、いつもの山根さんの世界です。

 

この「目の前に変な少女がいて何かをやっている」感じは、遠い昔に見た、山海塾暗黒舞踏団)のパフォーマンスに似ていて、それが少女っぽいので何やら楽しい音楽です。

 

鈴木治行さんの 沼地の水(2009) はチューバの響きや旋律や機能に歌が注釈を付けていく面白い曲です。特殊奏法の紹介まであるので、うむ!なるほどと納得します。

ポピュラー音楽でも、たとえば日没から夜半を経て夜明けに至るイメージの音響を先に作ってから、その説明をポエティックに歌詞にして歌うというものがあって、概して良い作品が多いです。

 

科学論文の形式によるデュオ(2009/2010) と ローテーション I(2010)  は、テキストの意味はわからなくても、言葉それ自体が音韻に聞こえるという体験で、1980年代に「意味はさっぱりわからない」のに流行した思想誌「エピステーメー」を読み上げて悦にいるという独特の楽しみに似ている気がいたします。

 

こうした音楽を聴いているいると、いつしかテキストの内容ではなく音韻や抑揚に独特の楽しみを見出すようになり、たとえば、昔のジャズファンはかなりの割合で落語ファンが多いというのもうなずけますし、概して下衆な印象を持たれがちな浪曲にも、親しみがわくという発見があります。

 

私のiTunesには「Voices」というものがあって、グレゴリオ聖歌から鈴木大拙の公演、フィネガンズウェイクの朗読、現代のヴォイスパフォーマーまでありとあらゆる声を集めてあります。今回のアルバムもそのプレイリストに加えさせていただきました。

 

楽しい楽しい♪

 

<補記>

 

「ことば」について

バッハの「マタイ受難曲」は、極めて説明的でプロテスタント敬虔主義の権化のようなテキストであるにもかかわらず、多くの日本人クラシック音楽ファンをして「クラシック音楽の最高峰」と言わしめているのは、やはり音楽の力がそれだけ偉大なのでしょう。

 

日本では平原綾香さんの曲だと思われている「ジュピター」(ホルスト組曲「惑星」から「木星」の第4主題)は、英国の愛国歌「I vow to thee, my country我は汝に誓う、我が祖国よ)」の歌詞が付いていたり、賛美歌になっていたり、別の歌詞が付いていたりします。

音楽とことばの関係は、昔から研究されてきていますし、音素の分析もあれば、日本特有の言霊信仰も含めて、 私もいろいろな作品を聴きながら考えてみたいと思います。