<占い師の視点>草食男子/婚活/セクハラ/ストーカーetcを全部トータルで説明してみる
紀元前であろうと、21世紀であろうと、男女のやっていることにそう大きな変わりはなく、当然、草食男子と呼ばれる男性たちについても、その発生原因がホルモンが云々とか、食生活がどうこうとかの話ではなく、すべて文化的所産であろうと思います。
「草食男子」「婚活」「セクハラ」「ストーカー」など女性を取り巻く弊害の多くは、男女雇用機会均等法の改正とそれに伴う意識の変化に原因を求めたほうが良いとおもいますので、そういう立ち位置からの説明を試みてみたいと思います。
1 80年代前半まで
「専業主婦」という言葉がマスコミで登場したのは1971年の「主婦の友」誌が最初らしいですが、そのライフスタイルが良いか悪いかはともかく、「女性はほどほど社会経験を積んだら、結婚して家庭に入るもの」という観念が根強く、これは男性社会からの強制だという説が支配的ですが、実は当時の独身女性たちのうちかなりの人たちもそのつもりでいました。(女性の雇用が追いついていなかったためです。)
その頃から、男性から女性に卑猥な言葉を投げかけたり、体を触ったりという行為はありましたが、適当にスルーしておいて本命の男がいたら、適当に良い仲になって結婚してしまうつもりだったため、イヤではあったものの、それを「嫌だ」と口に出したら自分が本命だと思っている男性まで遠ざけてしまうので、忍従していたというのが実態だったと思います。
2 80年代後半~90年代
この頃からようやく「女性も仕事を持って働き続けるもの」という意識が浸透しはじめています。もちろんすべての女性がというわけではなく、まだ育児休暇も未整備でしたから、妊娠出産と同時に退職して、子どもがある程度大きくなったら、また働き始めるというスタイルも多かったのですが、とにかく女性が仕事を持って働くということになると、「男のワイセツな言動は嫌いだ」ということを表明するために「セクハラ」という用語が現れて、一種の流行語になります。
これは視点を変えてみると、女性たちが男性を「恋愛対象の男」と「恋愛対象外の男」に2分割したということですので、「恋愛対象外の男」とされた男性たちはうっかりワイセツな言動を取ったら「セクハラ」と言われるため、為す術がなく「ストーカー」と呼ばれる行動に出始める人が出始めます。
3 2000年代以降
この頃になると、「女性に対して淫らなことを言ったり性的なことをしてはいけない」ということが男性の間にマナーとして定着してきます。
つまり、紳士的になったということですが、これは昭和30年代くらいにまで言われていた「素人の女に手を出すな。遊びたければ"そういうところ"へ行って遊べ」というマナーが復活したということでもあります。
また、インターネットの漸次普及に伴い娯楽も多様化し、なにも色気ばかりが道楽ではないわけですから、結婚したければしかるべき筋から縁談をもらってすれば良いだけになります。
「草食男子」というのは、女性に対するマナーをしっかり守っている男性のことを云うのだと思いますが、それ以外の男性が肉食なわけではなく、要するにスケベな男性はストーカーになるか、風俗三昧になるかという道になったということでしょう。(ストーカーになるよりは、風俗三昧のほうが迷惑がかからなくて良いです。)
大変良いことのはずですが、遺憾ながら性の一方性。つまり、男性は発情したいと思えばそうすればよいだけなのに対し、女性のほうは自分が好意を持った男性に発情してもらわなければならないわけですから、大変な不安を抱え込むことになったと思われます。
また、恋愛があって、プロポーズがあって、その先に結婚があるという神話がまったくのお伽話であることも判明したことで、婚活の流行となります。
以上により、草食男子/婚活/セクハラ/ストーカーなどは、それぞれ別の理由で発生したものではなく、男女雇用機会均等法とそれに伴う意識の変化による一連の現象だろうと私は思います。
<要約>
セクハラという用語が、ストーカーという用語と草食男子という用語を生んだだけです。もちろん男女ともに生物なのですから、生殖目的以外の性行為は謹んだほうがよいでしょう。
昭和嫌い=同世代嫌い<年寄り嫌い
昭和の御代はほぼ63年にわたって続き、軍部の独走による自滅的な戦争により都市部は灰燼に帰し、それから奇跡とも呼べる復興を成し遂げました。
私はそれらの昭和史を研究することには多大な関心がありますが、いわゆる「レトロ趣味としての昭和」は大嫌いで、たとえば昭和の頃からあるバウムクーヘンやシュークリームなど、今ではとても美味しくなっていることは間違いないのですが、なんとなく体が受け付けない体質です。
実際にその時代を知らない世代がファッション的なレトロを楽しんでいるのを見るのはとても好きなのですが、自分の同年代の人々がそうしたものを喜んでいるのを見ると、物凄い嫌悪感に襲われます。
自分でもその理由がわからずにいたのですが、ここ最近、自己分析をしてみて分かったこととして次のことが挙げられます。
- かつて流行ばかり追いかけていた人たちが、いよいよ自分の人生見通しが立つようになって、自分がいちばん輝いていた(と考えている)頃のものにすがっている。
- 年齢を重ねるに従って、10年前のことも30年前のこともわからなくなっている。いわゆる認知症の始まり。
要するに、自分を含めた年寄りが嫌いということらしいです。
何も未来指向でやりたいわけではなく、それ以前に人生の半分以上を過ごしているのですから、自分が見たり聞いたりしたものを「昔は良かった」でもなく「昔はひどかった」でもなく、しっかり時間軸の中に留め置きたいので、「1992年の半ば」というように記録しておけば、あとでその時期に起きた出来事をWikipediaでチェックしたときに思わぬ発見があります。
(例示した1992年の半ば、私は半徹夜状態で多忙な日々を送っており、そのころにPKO法案が成立しています。確かに騒がしかったなとかすかな記憶がよみがえり、それは湾岸戦争で国際的に大恥をかいたあとだった など)
<占い師の視点>医者/公務員限定婚活は女性向けの風俗産業
あいも変わらず、医者限定/公務員限定の婚活が人気のご時世ですが、それらの婚活パーティなるものは、ほとんど女性向けの風俗産業だろうと私は思います。
公務員といってもさまざまで、警察、消防士から一般行政事務や現業部門(ゴミ収集など 役所系法人での雇用が多い)がありますが、これらの人々はびっくりするくらい閨閥、つまり姻戚関係で結ばれています。
また、男女雇用機会均等法施行後は当然のことながら女性公務員の採用を増やしていますから、やはり男性のほうが多いものの、男性公務員の多くは職場の女性同僚と結婚しています。
双方ともに上司またはOBがその省庁の人であることも多く、これで閨閥関係が一層深まるという次第です。
閨閥に入ると、組織の情報が極めて仔細に耳に入ってきますし、人事についても上司またはOBが仲介すればかなり有利に動きます。
また、転勤するにしても、配偶者は別の人事で今の部署にいるわけですから、単身赴任の名目が立ちますので、単身赴任手当をもらって異動します。多少の赤字をガマンすれば週末は家に帰れます。
一方で、結婚したがらない男性も多いのですが、それは次のような人たちです。
(1)本人が独身主義を貫きたいと思っている
(2)客観的に見て「この人は結婚生活に向いていない」と思われる人
(3)何か別の理由(笑)で女性とは結婚したくない
こう考えてみると、男性公務員が職場の女性以外と結婚するとすれば、それは単純にモテないか、職場家族主義に染まるのがイヤな人でしょう。
そうした婚活パーティは冷やかしで来ている男性も多いはずですが、もし、本当に公務員と結婚したいのであれば、転勤を厭わないことが必須の条件となります。公務員に転勤はつきものですし、地方公務員なら転勤はないと云われていますが、およそ人が住んでいるところには必ず公務員は行かねばなりません。
そうした人たちにどこででも付いていく覚悟があれば公務員限定婚活に行く価値があると思います。
女性も仕事を持つ時代に、いちいち夫の転勤に付き合うのはイヤだというのも御尤もですが、それならば転勤のない人と結婚すべきであって、男女共同参画の時代というのは、女性の勝手放題も許されない時代なのだということを肝に銘じたいものです。
【20世紀音楽】(ブーレーズ追悼)私的名曲10選(ただし演奏時間35分以内)
ピエール・ブーレーズ(作曲家/指揮者)が先般逝去されたことで、「音楽の20世紀」が2015年で終わったことを実感しています。
選曲に一定の枠組みがあるとはいえ、広範に指揮活動もしていたわけですから、音楽の20世紀に関する裾野を広げたご功績は多大だと思いますので、追悼を兼ねて「20世紀音楽名曲選」私的版を書いてみます。
この種のセレクションは、音楽史的に重要な曲も広く人気のある曲も自分の好みも一緒くたになってしまって収拾がつかなくなるのが相場と決まっていますので、一定の制約条件の下でのセレクションとさせていただきます。
(1)演奏時間が35分以内であること(少々の誤差は認めます)
(2)可能な限り別版や編曲版が存在すること(本人の編曲でも他の作曲でも構わず)
(3)可能な限り上演機会(録音の種類)が多いこと
(4)可能な限りクラシック音楽ファンまたは現代音楽ファン以外にも広く知られていれること
演奏時間35分というのは、言わずもがなではありますが、20世紀音楽を語る上で絶対に欠かせないストラヴィンスキー「春の祭典」とムソルグスキー/ラヴェル編「展覧会の絵」がおおむねこの演奏時間になっていることによります。(これとは話が別ですが、初期ビートルズのライブコンサートの時間もこの時間だったそうですし、LPの収録時間が約40分だったのですから、人が集中して音楽に取り組めるのはおおむねこれくらいの時間なのだろうと思います。)
この条件でセレクトすると、極めて有名な曲ばかりが揃いますので、大変都合が良いと思います。
「まだ発掘されていない名作がある」とか「これから形になるのを待っている未来の名作がある」というのは確かにそのとおりですが、それは別の機会があれば聴いてみますので、もしあるのでしたらお知らせください。(ただし演奏時間35分以内です。)
20世紀音楽の金字塔であり、20世紀音楽の潮流のひとつとなった土俗主義を代表する曲です。かつては演奏至難な曲としても知られていましたし、いわゆるオーディオテスト用としても使われていたので、演奏史としてはかなり異様だったものもあります。
意外なほど古くから日本でも広く一般に知られていて、1950年代のニュース映像では緊迫した場面のBGMとして使われていました。(第二部「選ばれたいけにえへの賛美」の一部)
#何度も繰り返して聴くと覚えてしまい、ヘッドバンキングができることでも知られていますw
(編曲)ラリー・コリエルのギターソロ ピアノ連弾ほか
「プロムナード」のメロディは知らない人がいないくらいの有名曲ですが、第2曲「こびと」のグロテスクな響きや、別のプロムナードを挟んでの「古い城」のアルト・サックスほか聴きどころ多数です。
編曲が多すぎて、ラヴェル版がどれだったのかを忘れるほどの多彩な曲です。
3 R.シュトラウス「4つの最後の歌」
作風は後期ロマン派ですが、戦後まもなくの作品です。崩壊した第三帝国と灰燼に帰した国土の中で作曲された彼岸への憧憬の音楽。感動的です。
4 ブーレーズ「主のない槌」
トータルセリエズムで作曲された作品なのですが、何度か聴きこむとドビュッシーやラヴェルの音楽の延長で聴けてしまう美しい作品です。
5 シュトックハウゼン「コンタクテ」
電子音楽の響きの多彩さに加えて、未知の音と既知の音が「接触」するというコンセプトは、その後のライブエレクトロニクスへの道を拓きました。
15曲からなら弦楽四重奏曲の中でも演奏頻度が高く、極めて劇的な表現と沈痛な響きが交差する親しみやすい入門曲と言えます。
どちらもフルートとギターのための作品で、どちらか単独だと寂しいのですが、この2曲を演奏するためのユニットが出来ていて、それらのユニットのための新作も書かれていますので殿堂入りとなりそうです。
(編曲)「海へ」は、作曲者による「海へII」「海へIII」があり、「タンゴの歴史」はサクソフォンその他さまざまな楽器へのアダプテーションがあります。
8 ケージ「4:33」
演奏者が何も音を出さないということで話題になった作品で、実は聴くべきものはほとんどないのですが、「バージョンの多様性」「有名」という点で文句なく合格なので、エントリーしてみます。
(編曲)演奏(表現)のバリエーションが極めて多いです。
弦楽四重奏団が4台のヘリコプターに分乗して演奏し、その様子がテレビカメラで演奏会場に中継されるという、常人には到底想像すらできない音楽として度肝を抜いた作品です。
私個人の意見として、とにかくアコースティックな響きにこだわり、マイクロフォンを通した音を嫌うクラシック音楽に穴を穿つ作品ではないかと思います。おおがかりな上演そのものがエキサイティングです。
オリジナルは、Emerson,Lake & Palmerのプログレッシブ・ロックミュージックです。
ロックミュージックをクラシック音楽のオーケストラ曲として編曲するとどうしても響きが単調で、打楽器ばかりガンガン響くうるさい音楽になりがちなのですが、それでも吉松隆が投じた一石は大きく、数多くの編曲版が登場しています。
以上、10曲のセレクションとなっていますが、もちろん他にも名曲はたくさんありますし、バルトークやドビュッシーが外れてしまいましたが、戦後前衛まで入れる以上、代表的作曲家の代表作を全部入れるととてつもないリストになりますので、こういう形になりました。あしからず。
(数ある他の「傑作」につきましては、ぜひ上演機会の増加を図っていただきたく存じます。)
20年前からあった電子書籍の夢ーイマサラ感のある定額サービス
音楽はAppleミュージック、書籍はAmazon Kindle、動画はNetflixといったサブスクリプション/配信モデルで沸き立った2015年でしたが、それらはいずれも「かつてあったもの」なので、その話を書きたいと思います。
90年代半ばのパソコン通信ユーザーは、ある意味当然の発想として「もう紙なんて要らないんじゃない?このままパソコンで本を読めばいいじゃん」という発想で、中には「5年以内に紙媒体の書籍は衰退する」という妄想を語る人までいました。
確かに、コンピューターによるパブリッシングは充分浸透していましたから、あとは通信で配信すれば良いだけの状態であったとはいえ、次の点がまったく考慮されていませんでした。
1 権利者や既存業界の抵抗
2 3Kg近いノートPCを常時携帯することの理不尽
3 貧弱な公衆回線網
4 極めて少ないストレージ容量
5 極めて不安定なOS環境
そして困ったことに、西暦2000年頃から携帯電話が普及し始め、これは携帯性においてはバツグンではあったものの、メールでのコミュニケーションの楽しさに魅入られて、読書の娯楽性が完全に衰退していったように記憶しています。
実質、出版不況は1998年くらいから起きていますので、原因の一つは間違いなく携帯電話の普及でしょう。友人知人とメール交換していたほうが楽しいに決まっていて、それは現在スマートフォンが主流になってLINEとゲームでヒマをつぶすほうが楽しいというのと同じです。
今も昔も、書籍は一部愛好家のためのツールです。かつては仲間内の共通の話題としてのベストセラー本がありましたが、携帯電話普及後はそういう文化も衰退していると思います。
2 時は流れて~これからの私の配信サービス利用予定
現在その気になれば、「音楽」「書籍」「映画/映像」が好きなだけ楽しめるわけなのですが、実は定額配信サービスは決して安くはありません。
毎月各数百円とはいっても、年間にすれば6,000円~12,000円程度はかかっていますし、しかもパケット代は別ですから、MVNOの潤沢なプラン毎月1500円相当を1年間で18,000円程度として合算すると合計3万円くらいにはなります。
毎月3,000円近い予算を投じて日がな一日映画、音楽、書籍三昧で過ごせる人というのは、おそらく年金暮らしの老人くらいでしょう。
ただ、「ミニマリスト」という言葉が象徴するように、1万冊の蔵書と1万枚のCDを所有するとなれば、それ相応の広い家に住む必要がありますが、完全電子化または配信に移行すれば端末1台と簡易なオーディオ装置があれば済みますから、ワンルームマンションでも暮らしていけるわけなので、それと相殺してコストを考える余地はあると思います。
<音楽>
私の場合、これまで買ったり借りたりしたCDの音源が3TB以上をストックしてあるので、配信モデルでわざわざ聴くほどのモチベーションがありません。よって、こちらのサービスはスルーさせていただきます。
最新情報の取得はYou Tubeでまかないます。
<書籍>
Kindle本で意外と重宝しているのが「雑誌」です。雑誌のよいところは、たとえば「アベノミクスの成果」と「SMAP独立」と「落日企業の元社員の末路」と「これからの投資有望株」といった雑多な情報を広く収集できることです。
ネット時代になってから、自分に関心のない情報はスルーしてしまうようになって、知識が偏り過ぎる傾向がありますので、その是正という意味でもランダムに月に1冊くらいは買うようにしています。
あと、新書系はそれなりに充実していますし、古典は青空文庫などで提供されていますから、私もまさか読むことはないと思っていた九鬼周造の「いきの構造」などを拾い読みしています。
<映画>
1作あたり2時間程度の鑑賞時間がかかる娯楽ですから、途中で小休止しても良いとはいえ、You Tubeなどで前評判をチェックしてから観るということになるのだと思います。
いずれにしても、音楽とは違って一日中流しっぱなしにすることにはいかなる意味もないので、どこまで付き合うかは未知数です。
3 便利が極まれば別の「不便」を探すことで未来は拓ける
電子書籍であろうが、紙の書籍であろうが、それは著作物であることに変わりはないのですが、一部の作家は紙の書籍に固執して電子化を拒んでいるケースがあるようです。
具体的には三島由紀夫と大江健三郎です。大江健三郎は最近ようやく電子化が果たせたらしいですが、従来型のメディアというものに極端なこだわりを持つ人はいるもので、たとえば、ページを捲るときの指の質感が大事だというようなものかもしれませんけど、どのみち時代の趨勢には勝てないでしょう。
一方、消費者のほうでも高齢者を中心に苦情は出てくるものと思われます。
「なんでも便利になればいいと云うものではない。」
「時代についていけない」
という感じですが、そういうことを言っている人たちであっても自家用車を運転したり、海外旅行に行ったりしているわけで、そういうことが気軽にできるようになったのは、おおむね1980年代以降のことですし、携帯電話やパソコンなんてオレは死んでも使わないなどと言っていたくせに、孫の写真がメールで届くとなったらあっという間に操作をマスターしているわけです。
畢竟やる気があるかないかの問題であろうと思われます。
また、何事も便利が極まれば別の不便が生まれるもので、すでに一部で始まっているモノクロ映画のカラー化などがその一例です。これまでモノクロで間に合っていた映画が、それでは物足りないと考える層が出てきたわけですから、こちらも創意工夫があれば新たなニーズが開拓できるのでしょう。
それでは、2016年もこれらの動きを注視していきましょう。
ミュージシャンとリスナーの超えられない溝(曲名とか名曲とか)
プロ/アマチュア問わず数名のミュージシャンとの交誼をいただいているのですが、ミュージシャンとリスナーとの考え方がこんなに違うものだという例をまとめてみます。
その1 自分の曲名を覚えていないミュージシャンが多い件
ライブのMCを聴いていると、「ただいまの曲は、えーと、あれ?(と言ってセットリストを見に行く)」例を多く見ます。
音楽にもよりけりなのですが、演奏のみのミュージシャンにとって曲名はどうでもよいということが多々あるようで、実際に演奏する人たちはコード進行なり、中間部の盛り上げ方なり、考える事が多くあるので、曲名にかまっているヒマはないというのが実態のようです。
リスナーにとっては、曲名こそが命ですし、ポピュラー・ミュージックなどはイケてない曲名だと売上が悪くなりますので、作曲者も相当もったいつけた曲名を付けるのですが、その曲名の意味を問われるとなにやらそれらしいことを云わねばならないので、極めて苦痛であるようです。
私の大好きなオランダのバンド「フォーカス」は、そうしたもったいつけた曲名を徹底的に避けていることで有名で、かなりの力作とされているこの曲なんかは曲名がありません。
その2 自分の公式音源を一切持っていない件
全員ではないのですが、「サインしてください!CDショップに行く時間もないし、行っても在庫切れのことがあるので、お持ちのCDにお願いします」と言うと、「いや、実は自分の公式音源は持っていないので、CDショップでお買い上げください」という例がよくあります。
一方で、流通を介さずにライブ会場で手売り限定にしているミュージシャンもいますので、この件は謎です。
その3 本人にとっての「名曲」とリスナーにとっての名曲」はまったく違う件
ヘレン・メリルというジャズ・ヴォーカリストがおり、この人は「ヘレン・メリル ウィズ クリフォード・ブラウン」という50年代の名盤だけがダントツ大人気という人で、おかげでこの曲はこのアレンジが最高峰!ということになっています。
この方は、何度も来日して当然インタビューも受けているのですが、はるか昔の名盤などはどうでもよく、自分が「これが最新かつ最高だ」と考えている音源のことを語りたいのですが、インタビュワーのほうは、この名盤の制作秘話のようなことばかり尋ねるので不興を買うということがありました。
人間の五感の中では聴覚がもっとも保守的だと云われており、新奇なものを受け入れないことや、世俗人気曲が名曲とは限らない(バッハの「トッカータとフーガ ニ短調」がバッハ研究者の間では評価されていないことに好例を見ます)ことなどがあげられるようです。
その4 ミュージシャンが「やっている音楽」と「好きな音楽」はしばしば全く違う
演歌の藤あや子さんは、ご自身はアメリカのロックバンド「エアロスミス」の大ファンとのことです。
そのほか、松任谷由実さんはローリング・ストーンズが来ればライブに行くといった例があって、ご自身がパーソナリティを務めるFM番組で嬉しそうにそれを話したら、リスナーは「なにそれ?」という反応だったり、これは世代的なマスト(必ず通過している音楽)である場合もありますが、自分が演奏できない音楽だから好きという場合もあるようです。
さすがに、自分以外の音楽に興味がないということはないと思いますが、大御所筋が「◎◎というミュージシャンは素晴らしい」と褒めると、すぐに「あの◎◎も絶賛」という形で利用されてしまうので自粛して言わないことも多いようです。
そして、自分の曲名はしばしば忘れていても、自分が絶大リスペクトするミュージシャンの曲名は全部覚えているのも当然のことでしょう。
ほか、なにかあればコメントください。ミュージシャンのみなさま
【天赦日の正体】神殺星占い
新年あけましておめでとうございます。
さて、東洋占星術には「神殺星占い」というものがあって、あまりアテにならないから参考程度にとどめておくようにと習うのですが、分かりやすくて、全部ではないのですが、割とよく当たるので私は結構使っています。
神殺星については、次のサイトが詳しいです。
近年、「宝くじを買うには天赦日が良い」と云われていますが、この「天赦日」というのも、この神殺表の中にあります。
天赦日の象意は「一生暮らしに心配なし。」とのことですから、確かに宝くじにピッタリな日ではありましょう。
さて、私は実はここで云われている「天赦日」になる「秋の戊申」日生まれなのですが、もちろん金持ちではないものの、親が倹約家で。自分も就職してそこそこの給料をもらって、それほど贅沢をしなかったため、確かに暮らしに心配をしたことがないと思います。
ただ、年末ジャンボ宝くじの一等と前後賞を併せて10億円などという大金をもらって、それで一生暮らしに心配がないかどうかは甚だ怪しく、分別盛りの大人であっても持ち付けぬ大金を持つと、あっという間にスッカラカンになるのがオチでしょう(笑)
分をわきまえるという基本を忘れなければ、なかなか良い日であることに変わりはないと私は思っています。
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