J-POP海外進出して失敗 これは「真珠湾奇襲攻撃成功の夢よもう一度」です
1960年代に坂本九さんの歌う「上を向いて歩こう」が全米ヒットしたのは事実ですが、これをもって日本のポピュラーミュージックが世界に認められたというわけではなく、これは作曲者の中村八大の書いたメロディが素晴らしかったからでしょう。
それ以降も日本国内で大ヒットが出ると、すぐにアメリカ進出を云い出すのは、おそらく1941年12月8日の日米開戦、真珠湾奇襲攻撃成功の夢から醒めていないからだと思います。
私が記憶している失敗例は次の3つです。
(1)ピンク・レディ
日本では「社会現象」のようになって、小・中学生の特に女の子たちが彼女たちの踊りを覚えて歌っていたわけですが、人気絶頂の頃にアメリカ進出を決定。
アメリカのTV事業者との交渉は当然大人たちがやったのですが、この時のピンク・レディの二人は十代後半の若い女性ではあるものの、アメリカ人が見ればおそらく「子ども」に見えたはずです。
どこの国でも子どもが歌って踊るのを見るのは面白いので、そういう趣旨での人気は出たわけですが、おかげで日本国内で彼女たちをテレビで見る機会が激減。
結局、アメリカでは飽きられ、日本でも人気が下火になってそのまま解散。不運なことでした。
いわゆる「ハイテク披露」のテクニカルバンドとして人気が上がり、ついにはジャズ系の国際的なフェスティバルである「モントルー・ジャズ・フェスティバル」に出演するに至りました。
マイナーなステージではあったのでしょうが、メンバーにとってはこれ以上ない名誉だったはずで、ガチガチに緊張して痛恨のエラーを出している様子がYouTubeに残っています。
この人たちも、やはり人気に便乗してアメリカ進出を行いましたが、アメリカ人プロデューサーの意向でヴォーカルを起用した曲を発表しました。
なかなか良い曲ではありましたが、実は、こういうAOR的な曲ならアメリカにはたくさんありましたから、わざわざ日本人がアメリカに行って演奏する必然性もなく、肝心な日本のファンがドン引きして国内人気が急下降。
そのうち、メンバーが分裂して別ユニットを結成したりして、なんとなく休眠に入りました。
(3)X-JAPAN
楽器演奏はそう悪くないと思いますが、やはりヴォーカルがダメだったようです。
外国人に日本のロックを聴かせると、イントロの段階では「ふむふむ」と聴いているのですが、歌が出たとたんにずっこけることが多いようです。
たとえば、彼らの曲ではありませんが、次のような歌詞があります。
もてあましてる frustration
Youve got an easy day
英語と日本語のごちゃ混ぜのうえに、1970年代に桑田佳祐が開発した巻き舌日本語の多様と、実際の英語が混交した結果、何かの人工言語のように聞こえるということです。
アメリカ人が、Love me Fujiyama Call me geisha aishiteru と歌ったら、日本人が腹を抱えて笑うのと同じことです。
要するに、
どう考えても珍妙な音楽を引っさげてアメリカ進出をするから失敗するのは当然
ということです。
日本でヒットした曲にまったく別の英語詞を乗せて、奇跡的にうまくいったとしても、それはアメリカにたくさんあるポピュラーミュージックの一部にしかなりませんから、それが大ヒットするなど夢のまた夢ではないかと思います。
戦前まで日本の大衆音楽に大きな影響力を持っていたのは、アメリカ音楽ではなく、フランスのシャンソンです。もちろんジャズもありましたが、それは踊るための音楽であって、日本歌謡への影響力はシャンソンのほうが大きかったようです。
シャンソンといってもいろいろなのですが、たとえば武満徹が心底惚れ込んだという、リュシェンヌ・ボワイエ「聞かせてよ愛の言葉を」は、このようなメロディです。
現代のフレンチポップ(といっても、80年代の曲ですが)、ジャンヌ・マスの「
Johnny Johnny」という曲はこのようなメロディです。
どちらも、日本人に受け入れやすいメロディだと思いますが、これはシャンソンがダンスを前提とせず、歌うことを前提とした大衆歌謡だからでしょう。
日本の大衆音楽には、そこかしこにシャンソン風味が残っているものが多いように私は思います。
真珠湾攻撃は軍事作戦でしたから、それは最大限の努力をして避けるべきでしたが、音楽の奇襲攻撃は全く問題がないとはいえ、You Tubeで出した音源がシェアされてアメリカで話題になったら演奏しに行くというのが丁度よいと思いますし、アメリカ人をJ-Popの前に屈服させる必要などまったくないと思います。