このブログは2019年11月15日をもって閉鎖します
誰も残念がる人はいないと思いますが、自分へのケジメとして理由を次のとおり書き置きます。
「ブログで月収200万」系の人のイイねが不快
記事を書いたらTwitterにシェアするわけですが、そこでイイねを付けてくる人が
・「ブログで月収200万」とかいう類の人
・起業を勧めてくる人
・素性の怪しい自称「若い女性」
こういう人たちは、すべて詐欺師だと思っているので、もう我慢の限界に達した。
それほど書くことがない
いわゆる人気ブロガーというのは、書くことが奔流のように溢れ出てきて、かつ、それらを面白おかしく読ませる文章技法があるのだと思いますが、自分にはそういう才能は無いようです。
ほかにやりたいことができた
何をやっているのかは秘密ですが、要するに時間がないのです。
たまになにか書きたいときは
Facebookで厚誼をいただいている音楽家の方々が新譜を出したり、コンサートをやったりしてそれを鑑賞したときには感想を申し上げることがあります。
そういう場合には、noteにでも書いてお伝えしたいと思います。
そのようなわけで、唐突ではありますが11/15にこのブログを閉鎖します。TwitterやFacebookなどでは引き続き何かやっています。
これまでご愛読いただきありがとうございました。
身の丈にあった受験(努力)しかして来なかった自分の現在はそれほど悪くない
なにやら文科相の「身の丈に合った受験を」という発言が大炎上しているようで、私は正直なところ身の丈に合った受験で何がいけないのかよくわからないので、なんとなく落ち着かないのです。
というのも、自分がこれまで身の丈に合った努力しかしてこなかったからです。
適当な努力&不要なことはやらない勉強
私の場合は、父親からの影響が大きかったのかもしれませんが、要するに「学問と受験テクニックはまったくの別物で、受験においては試験に出ないことはやらなくても良い。」というのが一貫したポリシーでした。
つまり中学時代は主要5課目以外は真面目にやらず、その5課目も教師の授業など聴くだけムダ(教師にやる気がないのは学生にもすぐ伝わります。)なので、授業時間も自習し、高校受験も自分の偏差値で無理なく入れる高校しか受けませんでした。
大学受験も同じく、文系志望だったので理系課目はほとんどやらず、自分の偏差値で無理なく合格できる大学一校しか受験しませんでした。
早めに取り組んだ就活
今では当然のことになっていますが、大学入学と同時に就活の準備は始めていました。自分の適性とそれに適合する業種選びをし、その分野の業界研究をして大学の就職担当とも打ち合わせをして、比較的早期にターゲットを絞って内々定をもらっていました。
勉強はといえば、やはり単位を落とさないだけの必要最小限しかやらず、ゼミも卒論なしの教授を選びました。
無事卒業して、友人たちとはさよな~ら~
社会人生活
さすがにこれは、同年代から現在の団塊までいる世界で、業務の以前にどうやってこの理解不可能な人々と一緒に仕事をすればよいのか悩んだのですが、結局相互理解は不可能なのだということがわかって、どうやって早く故郷の札幌に戻るかばかりを考えていました。
要するに力のある上司には忠勤に励み、どうでも良い上司には洟も引っ掛けないという基本スキルを身に着けたので、そこそこの王道コースを歩むことができました。
要領第一主義
私の実家は貧困とまでは行かなくても決して裕福でもなく、○○学力増進会とかいう予備校の類いにも行かせてはもらえませんでしたが、
(1)何事も早め早め
(2)要領半分・努力半分
あと、親が決して無理な努力を強いなかったことも幸いしていたのでしょう。
身の丈にあった受験をしていたら負け組になるとか、貧富の格差が学力の格差になっているとかいう現在の世の中もよくわかりますが、ネットで炎上しているだけでは物事は何も変わらないと思いますし、教育制度には反抗するより順応したほうが結局は得をするのだと思います。
それで、身の丈に合った受験をして何が問題なのか、やはり私にはよくわからないので教えていただきたいのです。本当に。
(音楽夜話)ANCキャンセリングヘッドフォンで聴くベートーヴェン
一応ミニマリストを標榜しているので、我が家のオーディオはそれはそれは貧相なシステムです。
スピーカーは充電式のSONYのポータブルスピーカー、イヤフォンはAppleのAirPodsでほとんど場所を取らないわけですが、どうしてもアンチノイズキャンセリング(ANC)*1機能付きのヘッドフォンが欲しくて、次の製品を購入した次第です。
理由は3つあります。
(1)室内の環境雑音に邪魔されないで音楽を聴きたい(寒冷地なので冬場のストーブの音は結構ジャマになります。)
(2)外出時にカフェでじっくり自分の世界に集中したい。
(3)どうしてもベートーヴェンが好きになれないので、オーディオ装置を改善すれば好きになれるかもしれないという期待
アンチノイズキャンセリングの効果について
地下鉄の走行時の轟音やカフェでのBGM、ザワザワという話し声といった持続的なノイズ(私にとっての)はかなりカットしてくれます。ただ、子どもが突然奇声をあげて騒いだり、隣のオヤジのなにもそこまでというくらいの大音声で「ぶへっくしょい!」というくしゃみをする音などはカットできません。
ただ、それらの音もこの製品のかなり耳に密着される素材による耳栓効果で軽減はされます。
なぜベートーヴェンか
はっきりいって苦手だからです。そもそも19世紀ドイツアカデミズムの音楽全般があまり好きになれず、音楽学者の岡田暁生氏によると、ドイツ音楽というのは周辺諸国でも一般聴衆に必ずしも好まれているとは限らず、ドイツ音楽はクソ真面目で聴いていて楽しくないと思われていることがあるようです。
それでも、たとえばシューマンが苦手だとかいうのなら、それは単に聴かなければよいだけなのですが、ベートーヴェンが苦手だというのはやはり音楽ファンとしてどうなんだという思いもあるので、今回手に入れたこのヘッドフォンで少しずつ聴いていこうと思っています。
試しに、この文章を書きながらベートーヴェンの「交響曲第7番」を聴いているのですが、まるでオーケストラで頭をぶっ叩かれているような終楽章、なかなか悪くないです。
音楽の好みというのは、本当に小さなきっかけでガラッと変わることがあり、今回購入したヘッドフォンの可能性を信じて聖書通読(創世記から黙示録まで)のように聴いていくことにします。
*1:持続的な騒音を電気的に除去する機能
(身辺雑記)2回めの総入れ歯が堂々の完成
せっかくはてなのブログを有料の「PRO」にしたのに、あまり記事数が増えていない理由をあれこれ考えるに、どうも立派な文章を書こうとして気負いすぎているから、逆に書くことがなくなるのではないかと思い至った次第です。
2000年頃に大流行した個人ホームページが次々と姿を消していったことがあるのですが、とある友人に云わせると「彼らはホームページに何かの論壇のようなものを期待していて、やってみるとあまりの反響の無さにがっかりして更新する気力がなくなったのではないか」
今でもブログにその手の論説の場を求める人もいますが、むしろTwitterのまとめやFacebookのグループでの交流を通して、さまざまな意見を総合したうえで何か書くか、そうでなければ、むしろ身辺雑記のほうがそれなりに楽しく書けるし、よほど下衆な内容でもない限り読んだくださるほうも楽しめてよいかということで、今回の標題になった次第です。
総入れ歯になった経緯
まず私の母親は私が幼少の頃にあまり歯磨きを教えてくれなかったということがあります。もともと子どもの歯は大人になるまでに抜け落ちて永久歯に変わるわけですが、万事ものぐさだった私は真剣に歯磨きに精を出すわけでもなく、その結果常に虫歯に悩まされてきました。
これだけなら、よくある話なのですが、すでに20代の頃に「歯磨きって面倒くさい。総入れ歯にならないかな」と心の奥底で思っていたのが、40歳を過ぎて見事に実現しました。
総入れ歯になると
まず歯磨きが不要になります。寝る前に外して洗って入れ歯洗浄剤に漬けておけば、翌日にはきれいになっています。
他人からは「いつもキレイな歯並びの人」に見えます。
もう夜も眠れぬ歯痛に悩まされることもありません。
食べ物のカスが入れ歯に挟まりやすく、よく口臭の原因になりますので、食事をしたあとは水道やトイレで洗うほうがよいでしょう。
ただし、自然の歯に寿命があるように、総入れ歯にも寿命があって、次第に物を噛む力が弱くなります。
そうすると、食事をしているときに十分に咀嚼しないで噛むものだから、よくのどつまりを起したり、むせ込んだりしますので、このままでは誤嚥性肺炎でも起して悲惨なことにもなりかねず、先月から通い始めて医師に頼み込んで歴月一ヶ月の総医療費でなるべく2万円を超すように通院を調整してもらいました。
協会けんぽ加入者なので、ひとつの疾患につきひとつの医療機関での窓口支払額が2万円を超すと差額が還付される仕組みをうまく利用し、今回は総額約24,000円になりましたから、マックス2万円で済みました。
決して安い金額ではありませんが、一度できれば何年も使うものなので、ありがたい話だと思います。
これまでしばらく我慢していた硬い食べ物も安心して食べられます
(展覧会鑑賞記録)奇蹟の芸術都市 バルセロナ展 ―ガウディからピカソ、ミロ、ダリまで―
台風の「た」の字もなかった札幌の三連休、被災地の皆さまには誠に申し訳ないことですが、標題のような展覧会に足を運んできました。
折しも紅葉の季節、自然の中に作った美術館の外はは色とりどりの木の葉に囲まれていました。
なにやら大御所画家の名前がずらりと並んでいますが、一地方都市の市立美術館にそんな名画が来るはずもなく、一方で別にあまり知られていない画家であっても美術館という空間は一種の祝祭空間として楽しめるのです。
メインは1929年バルセロナ万博90周年に因んだ展示となっていて、一応、ガウディ、ピカソ、ミロ、ダリの作品も数点ずつ展示されていました。
20世紀初頭という時代
音楽の話になりますが、今年はなにやら後期ロマン派~無調~12音技法という現代音楽への歩みを考える上で重要なシェーンベルク作品の上演が数多く開催されました。
考えてみれば、この20世紀初頭(前半)は二度の世界大戦という大きな不幸があったものの、芸術面では表現主義、シュールレアリズム、ダダイズム、フォーヴィズム、キュービズムなどが相次いで勃興し、新メディアとしての映画を加えれば芸術の視野が随分広がった時期なのではないかと思います。
もっとも、これはそうした歴史を知っている私たち現代の人間がそう考えるだけで、当時は新奇な怪芸術として扱われていたのでしょうし、それは今でも同じでコンピューター制御の特殊な光の造形を伴ったダンスは、普通の人には受け入れられないでしょう。
万博という未来志向
日本では1970年の大変な近未来志向の大阪万博が記録に残っていますが、今回の展覧会のテーマの一つであるバルセロナ万博も同じく未来志向で、こうした芸術もそういう視点で見るとまた別の面白さがあると思います。
ちなみに、一枚目の写真は1970年の大阪万博のパビリオン、二枚目の写真は現存する隅田川沿いのアサヒビール本社社屋の通称ウ○コビルです。
どちらも、今の目で見ると悪夢のような(失礼)形状をしています。
いずれにしても、未来志向が楽しかったのは1970年代半ばまでで、以降は第一次オイルショックと経済の低迷に連動するかのように、世の中全般が懐古的になっていったように思います。
現在、近未来を経験したければApple Storeやソニーストアにでも行けばよく、皆未来のことより今現在の目の前の課題を解決するのに必死のように見えます。
逆にそうした世の中だからこそ、20世紀初頭のアートが異彩を放って見えるのではないかなと考えてもみました。
最後に、札幌芸術の森美術館の美しい紅葉写真を貼っておきます。
フィルターバブルを超えて~Spotifyとの付き合い方
若者のGoogle離れということが云われていて、要するに自分の知りたい情報だけを検索して、自分の知りたいニュースだけがプッシュ技術で飛んできて、SNSでは自分と意見のあう人だけをフォローしていった結果、却って世間が狭くなる現象を指すようです。
ここにフィルターバブルという言葉があって、自分好みにカスタマイズされた情報しか表示されないというお話です。
若者はGoogleではなくSNSでのハッシュタグ検索を重視しているようで、確かにこれも一つの方法ではありますが、世間が狭くなることには変わりはありません。
「今の若者は『SNS検索』を駆使しています。特にツイッターとインスタグラムは、ユーザーの8割以上が検索に利用していますね。やり方は特に難しいものではありません。“ハッシュタグ機能”を利用するだけです」(同・ジャーナリスト)
https://myjitsu.jp/archives/59961
ひとまずSpotifyの話をしましょう
Spotifyは定額音楽配信サービスですから、かつてのCD購入のようにハズレ覚悟で大枚の金子をはたくことなく、気になった音楽がいつでも聴けるのが最大のメリットではありますが、これとても自分の音楽の好みに合ったアーティストやアルバムをレコメンドしてくるものだから、これに抗って自分の音楽世界を構築するのはなかなか至難な技です。
例として、私のこのプレイリストは完全に私が自分の頭で考えて作ったものです。
原則として和音の出せない楽器の無伴奏作品を集めたもので、バッハの無伴奏ヴァイオリン(以下略)や無伴奏チェロ(以下略)を嚆矢として、19世紀にはほとんど創られていないようですが、20世紀に入ってから多くの作曲家が無伴奏ソロ曲を創り始め、これにバッハのヴァイオリン、チェロ作品の管楽器編曲が百花繚乱となっています。
いわゆる現代音楽における無伴奏曲はベリオのセクエンツァシリーズがあるほか、シュトックハウゼンのオペラからの独立作品を含む多くの無伴奏曲、数少ないながら武満徹や湯浅譲二などにも無伴奏曲はあります。
さらに、ジャズにもあって、アルバート・マンゲルスドルフのトロンボーンソロ、ブランフォード・マルサリスのサキソフォンソロ、ロン・カーターやチャーネット・モフェットのベースソロなど、根気よく探せばあるもので、現在このプレイリストは1000曲を超えています。
こういうことを地味にやっていかないと、いつしか自分の好みの音楽しか関心のない(実はそれでも構わないのですが)、狭い世界でしか音楽を楽しめなくなります。
集合知もAIも幻想だった
かつてインターネットは情報の宝庫でこれがあればテレビも本も要らない、AIが自分のなすべきことを指示してくれるという期待がありましたが、これは幻想に過ぎなかったとつくづく思います。
検索結果の行き着く先は、多くが企業広告やまっとうな記事に見せかけた健康食品や起業、投資のPR、そして実に粗雑な日本語のWikipediaなど、これから発展していくにしても、次第に人間を怠惰にしていくだけではないかと思います。
物事行き着くところまで行くと原点に還るという意見がありますが、すでにスマホは機能の飽和とムダな高性能化と信じられない高価格で、ガラケーに戻りたい人が出ている有様です。
「インターネットとは何か?」という問いに対して「パソコンのことでしょ?」と答える人も多いようで、逆にもともとネットワークエンジニアの用語であった「パケット」という言葉が普及し、通信キャリアはここぞとばかりにギガギガ行って機械音痴な人を騙そうとしています。
私は、CDを大量に買おうとまでは思いませんが、古くからある本や映像/音声資料を大事にしていきたいと思います。
年に何度かは見知らぬ作曲家に出会えるFM放送、あまり詳しくない学問分野の助けになる放送大学ラジオ放送など、ちょっと発想を切り替えるだけで、世の中には自分の知らない世界が広がっていることを知らされます。
さらに電子デバイスも、電話は通話限定のガラケーまたはそれに近い機能限定版の廉価版端末に乗り換え、読書や勉強系はタブレットでやる方向に決めました。
PCはMacからWindowsに乗り換えて3年になりますが、あと最低3年できればあと5年は使いたいものです。
音楽産業は最近景気がいいらしい
これは日本を除く全世界分野での話らしいのですが、配信音楽が普及して、同時にあまり知られていないアーティストもYou Tubeで演奏動画を紹介したりして、それらの情報を頼りにコンサートに通う人が増えているとのことです。
日本はおそらく90年代の「CDという円盤の夢」にすがっているようなので、レコード業界が冷や飯を食っている模様ですが、Spotifyのレコメンドは一度忘れて音楽書を通して音楽に親しむというのもそう悪いものではないです。
巨匠の「○○○○50周年記念 リマスターCDボックス 重量級LP2枚組付き」などというのをAmazonで見かけますが、そうしたものにカネを出す人もやがては終活を考え出して買うのを控えるのではないかと思います。
以上、とりとめもないことを書いてきましたが、ちょっと視点を変えるだけで世の中は随分楽しいものだということを改めて主張してみたかった次第です。
【市民講座】音の形とデザイン 受講メモ
札幌市立大学の市民向け講座「音の形とデザイン」なるものを受講してきましたので、その記録を書いてみます。市民向け講座を受講するのはルドン絢子先生の中世音楽講座以来です。
講義の前半は音の波形と周波数およびその組み合わせについての講義で、早い話が電子音楽やシンセサイザーの原理を簡単に紹介するもので、後半は音の持つイメージや感覚が工業デザインにどう生かされているかの紹介でした。
面白かった点
(1)日本語は世界中の言語と比較して極めてオノマトペが多い
擬音語・擬態語は、完全にビジネスに応用されていて、「ほっかほかの肉まん」「キンキンに冷えたスイカ」「ほっこりおでん」など、オノマトペなしではもはや商売が成り立たないようです。
外国語にも擬音語はあるのですが、日本語ほど豊かではなく、..like ...thanのような形で表現されるようです。(Hotter than Hellと書けば「地獄より熱い」と直訳できますが、死ぬほど熱いのようなニュアンスでしょう)
(2)ある形状の物体に任意の名前を付けるとどこの国に行っても似たような名前になる
たとえば、割と適当な五角形の絵を描いて、それに2つの名前の候補を挙げる。ひとつは「キキ」もうひとつは「ムーマ」とし、これを学校でも街をゆく人にでもアンケートを取ってどちらが相応しいかと問えば、ほぼ全員が「キキ」と答えるという話です。
つまり、「キキ」というのは鋭角的なイメージ、「ムーマ」は丸いイメージということです。
(3)大衆車のドアを閉める音と高級車のそれとは音そのものの高級感が違う
大衆車のドアを閉める音は「バタン!」という平凡な音ですが、トヨタ・レクサス(例)のような高級車のそれは「バタム(余韻あり)」という風格のある響きになっていて、これも意図的な設計であるとのことです。
産業界では、「高級感のある音」「木の香りを感じさせる音」というような一見雲をつかむような話が研究されていて、そもそも高級感とはなんであるかという思索の領域にまで入る話のようです。*1
受講者からの質疑応答
その1
受講者「私は528Hzの揺らぎ(?)を中心にした癒やしのCDを持っているのですが、これはやはり科学的根拠があるのでしょうか」
講師「そのようなヘルツの音がずっと鳴っているCDですか?」
受講者「いえ、普通のクラシック音楽です。」
講師「うーん・・・・そういうのはあまり聞いたことがないですね。普通のクラシック音楽が528Hzを中心に作曲されているとは思えませんし」
その2
受講者「私はα1/2の揺らぎというCDを持っているのですが、どうもあまり癒やされないんですけど、どうしてでしょう」
講師「うーん・・・そのα1/2というのがそれほど学問的に完全に証明されたものではないようですし。。*2
その3
受講者「私は440Hzの正弦波をサンプリングして、これをAudacityでどんどんテンポを遅くしていくと、ある時点からうねりのようなものが聴こえだすのですが、これは数学的に算出できるのでしょうか。」*3
講師「私もAudacityを使っていますが、そういう実験はしたことがないです。少なくとも標準機能でやっている分にはそうした現象は生じないですね。 」
おわりに
大変有意義な講義だったと思いますが、受講者の質問で結構出ていた「癒やしのCD」に関する件は、マイナスイオンとかナノイーとか「一週間で10キロ痩せる魔法のサプリ」とかいうのと同じで、単に気分の問題なのではないかと思います。
工業デザインにおける音の使い方は、たとえばエレベーターが上階に登る場合は「ドーソ」下階に下る場合には「ソード」のような音階を変えることで無意識にビル移動がしやすくなっているなど、日常気が付かない場面での音のデザインや先に書いた「高級感のある音」など、今後街を歩いていて気がついたことがあればメモしておくと、新たな発見があるのではないかと思いました。