述而不作 いにしえの未来

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低音デュオセカンド・アルバム「双子素数」の感想

チューバ(orセルパン)とバリトンによるユニット 低音デュオの第2作目が3年ぶりにリリースされたので、早速購入鑑賞をいたしました。今回も早速感想を書いてみたい思います。

双子素数

双子素数

 

 

前作「ローテーション」は、中世~ルネッサンス音楽と現代音楽から選曲されており、どちらかというと女性的(中世~ルネッサンス音楽が女性的かどうかは異論がありましょうが)な面もあったのに対して、今回は現代音楽のみ、既知曲なし、武満ソングのような大衆受けのする曲ももちろんなしで、より男っぽくなった(?)印象です。

 

ローテーション

ローテーション

 

ちなみに、iTunesCDDBによるジャンル分けは、「ローテーション」が"Pop"で「双子素数」が"Classical"となっています。もちろん正しいとか間違っているとかではないのですが、そういう世間のイメージになっているようです。

 

楽曲

○感情ポリフォニー

「感情についての説明」がテキストとして用いられており、音楽それ自体はその感情とはあまり関係がないところが面白い曲です。この曲で驚くのはチューバの橋本さんが語りと演奏を頻繁に切り替え、中にはマウスピースに唇を当てたまましゃべっているらしき部分もあり、ボケっと聴いている分には楽しい曲なのに、演奏はおそらく相当に至難なのだと思います。オイ!(やや喧嘩腰)、オーイ(呼び声)、エ?(とまどいがち)といった擬音語の感情表現も出てきます。

○高音化低音

今回のCDで一番気に入った曲です。標題だけで想像すればものすごいファルセットを歌うとか、超絶ハイトーンを出すとか、あるいは電子処理するとかなのですが、そういう趣旨ではなかったようです。

まず、二人の息ノイズ。ホワイトノイズと考えれば理論上超低音から超高音まで均等に含んでいるわけです。

そのまま母音唱法を繰り出しながら全休止するときに、金属的な高い音の余韻が残っています。

どうやって出しているのかわかりませんが、ピアノの中に発声しているとか、銅鑼に向かって音を出しているとか、チューバのベルの中に発声しているとかではないかと思います。

そのまま母音唱法を繰り出しながらだんだんホーミー的な和音が聴こえだし、見えない高音のようのものが現れ、あるいはうっかりするとモーグシンセかと間違いそうになるあたりで、かん高い金属打楽器の音が一音鳴って終わります。

 

 ○明日も残骸 しいんと ぼうふらにつかまって

ぼうふらというのは昨今ではあまり見なくなりましたが、蚊の幼虫です。これ以上ないというくらいに軽く水面に浮かんでいるのですが、この「ぼうふら」「残骸」「しいんと」というテキストと音楽のもたらす荒涼とした不安定なイメージは、どこか懐かしい響きがする不思議な感覚に襲われました。

これは私の幼少期の思い出に繋がるのですが、それをここで書いても詮無いことなので、とにかくそういうノスタルジーを誘う作品に聴こえました。

○児童鯨

トランペットで馬のいななきができるのなら、チューバで象の鳴き声もできるのではないかと漠然と思っていたのですが、小型の鯨の鳴き声を音楽で模倣した作品だそうです。

mmmmmmmmmmmmm...............という高音の鳴き声、コポッコポッというチューバの音などが散りばめられていて可愛らしい曲です。

○他の2曲

「ジョルジオ・デ・キリコ」と「双子素数」は、何度聴いても「現代歌曲」にしか聴こえず、積極的な感想が出てきません。申し訳ないです。

松平さん参加のユニットとしては、この低音デュオのほかに双子座三重奏団というのがあり、こちらはまだCDは発売はされていませんが、コンサートには一度行ったことがあります。

一方、低音デュオのほうはまだ実演に接したことがないので、機会あればぜひ出向きたいと思います。(地方在住の悲しさよ・・・・)

 

前作も今回の作品も同じですが、ややグレードの高いオーディオで聴いたほうが良い音楽だと思いました。(クラシック音楽全般はそうでしょうが、特に低音強調の音楽ではその傾向が高いです。)

Airpodsで聴くと低音がビリビリ云いますので、できればやや性能の良いヘッドホンで聴くのが良いです。

かつての上司に相当コアなオーディオマニアがいて、「50万円のスピーカーで聴くくらいなら5万円の高級ヘッドホンで聴いたほうが良い音がするか」と質問したら、即答で「然り」とのことでした。

せっかくなので、金策ができたら5万円はムリとしても2万円程度のヘッドホンを買ってみようかと思った次第です。

 

 

 

妻との再三の交渉の末に食べ物の好き嫌いを克服した話

「せっかく手間隙かけて作ったのに夫が食べてくれない」とお嘆きの奥様は多いものと思われますし、心中察するに余りあるのですけれども、あまりに酷い偏食は別として、多少の好き嫌いはあって当たり前ですし、作っている妻だって嫌いな食べ物があるはずです。

しかし、栄養があるからとかデトックスになるからとか血液をサラサラにするからとか御託を並べられても、食べたくないものは食べたくないわけですから、あまりに押し付けがましいとこちらもキレて逆襲に出ることにしました。

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俺も嫌いな食べ物は頑張って食べるから君も嫌いな食べ物を食べてくれ

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ということで、次のような交渉にしました。

 

1 僕が嫌いなもの(少なくとも積極的には食べたくないもの)

ブロッコリーやカリフラワー

・生野菜全般(茹でたり焼いたりすれば大丈夫なのです)

・創作料理と称する「代用食」

(「豆腐ハンバーグ」とか「キャベツと長芋のお好み焼き」とかいわゆる本来のハンバーグやお好み焼きではないもの)

・西瓜

2 妻の嫌いなもの

・焼き魚・煮魚全般(特に魚卵や白子がたっぷり入ったもの)

・脂たっぷりの肉

 

3 交渉経緯

(1)僕がブロッコリーとカリフラワーを食べる代わりに、必ず一緒に魚も出して全部食べること(放置しておくとすぐに刺し身を買ってきて誤魔化すので煮魚・焼き魚に限定)

(2)代用食は禁止(豆腐は豆腐として食べればよいので、余計な手間をかける必要はなし)

(3)月に1回は焼き肉の日を設けること

 

この申し出により、妻は「肉は血を汚す」「魚卵には汚染物質が蓄積している」などと言って抵抗しましたが、そういうのはただの言い訳に過ぎないので却下しました。

 

そうしたわけで、今日の夕食もブロッコリーのサラダとサバの切り身が出るようです。

おしまい。

これまでに受診した医療検診のうちなかなか強烈だったのを書いてみます

私は特別病弱だったわけではないのですが、会社の健康診断ではよく引っかかり「要再検」のマークをもらって受診しに行くのですが、今考えると「何もここまで」というような検査を受診させられたので、その思い出を書いてみます。

 

(1)肺カメラ

胃カメラではありません。カメラを胃ではなく肺にぶちこんで病巣を見るのです。ただ単に胸のレントゲン検査で引っかかっただけなのですが、ご丁寧にこんな検査を受けさせられました。

さて、胃カメラはオエッとなりそうな部分(のどちんこなど)に麻酔をブシャブシャかけて麻痺させてからカメラを挿入しますが、肺カメラはちょっと異物が入っただけで猛烈に拒否反応を起こす気管支に麻酔をかけるのです。あまりに物凄い麻酔の量でクラクラめまいがしてきます。そして筋弛緩剤(たぶん)を注射して、体がダルダルになった状態でカメラを挿入します。結果は肺ガンの疑いはありませんとのことでしたが、大変に疲れる検査でした。

現在ではPETという全身の横断面を撮影するお気楽な機械があるようで、肺ガンの発見には効果が高いようです。

 

(2)肝生検

あまりにも中性脂肪値が高いというので、医者のオススメにより受診。これは右のドテッ腹に麻酔をしてそこに検査針を指して肝臓の細胞を取るわけです。

これも肝臓の脂肪が多いという以外さしたる成果もなく、結構な恐怖を味わいました。

 

(3)脳のMRI

 別に痛くも苦しくもない検査なのですが、巨大な検査装置に入れられて狭い空間内で結構な轟音を聴く羽目になるので、閉所恐怖のある人には耐え難い検査のようです。

私はといえば、この程度ののノイズ的轟音は普段から聴いており、メルツバウジョン・ゾーンのような強烈な音楽に比べれば可愛いものです。

とはいえ、定期検診で「異常あり」と言われたら後が大変なので、年に1回のこの検査は結構な恐怖です。

 

(4)眼底出血検査

猛烈に眩しい光を当てられたまま、目を閉じることもできず、医師の云うまま目玉を上下左右に動かすという、なにげに拷問のような検査で、私はこの検査が結構苦手です。

 

(5)インフルエンザ陰性陽性検査

結構多くの人がやらされているはずですが、現状これが一番辛い検査となります。いきなり鼻の奥に綿棒を突っ込まれて涙がボロボロ出るような苦痛を味わうことになりますので、この検査もう少し改善してもらえないものだろうかと常に思っています。

 

以上、つまらない話ではありましたが最近あまり書くことがないので、徒然に書いてみました。

THE鍵KEY(フランチェスカ・レロイ 谷崎潤一郎原作)講演 2018/05/19千住仲町の家にて鑑賞の件

去る5月19日、掲題のオペラを鑑賞してまいりましたので、感想などを簡単に書かせていただきます。

 

francescalelohe.weebly.com

 

音楽の内容と鑑賞場所との相性にまつわる件

音楽学者の岡田暁生氏によると「ある音楽を聴いて感動できなかったとすればそれは演奏内容の以前に聴いた場所が場違いだからである」とのことです。

現代のコンサートホールはなんでも演奏できるようにはなっていますが、やはりグレゴリオ聖歌などは教会で聴いたほうが心に響くでしょうし、ジャズならばブルーノート東京などのライブハウスで聴くのが良いはずです。

もしそうだとすれば、古い日本家屋で「妻」と「娘」が日記を盗み見ている「鍵」の公演は、仲町の家で鑑賞すると実にピッタリだと直感した次第です。

(映画版の市川崑監督「鍵」では、4人は一応会合の場所に顔を出すものの、すぐに自分の部屋に引っ込んだり、「妻」だけ風呂に入っていたりします。)

 

聴きどころなど

「夫」「妻」「娘」「木村(婚約者)」は、それぞれ別の部屋で別の時間を生きていて、鑑賞者は薄暗い日本家屋の中でそれぞれの部屋をのぞき見のようにして見たり(これがまたとてもエロいのです。)、ある場所に座って聴いていると、離れた部屋から別の音響が聴こえてくるといった空間的な効果を楽しむことができます。

「夫」から秘密裏の写真現像を仰せつかった「木村」が写真を並べているシーンを見た後、「妻」の部屋に行くと日記に挟まれたその写真を見つけて当惑してしまいこんでいるシーンは実に見ものでした。

 

遊歩音楽会というもの

今回のオペラのようなストーリーのあるものではなく、さまざまな場所で演奏または行為をやっているのを歩きながら鑑賞するという演奏会を遊歩音楽会と呼ぶらしく、その一つであるらしいシュトックハウゼンの「リエージュのアルファベット」という作品をビデオで見たことがあります。

 

しかし、今回の「鍵」では、むしろ空間的な効果のほうが面白く、私は主に「娘」の部屋の前に陣取って、他の3か所から聴こえてくる音を聴いていました。

気のせいか、聴衆はみな「ぞ~~~~っ」と青ざめた表情で鑑賞していたのが印象的でした。

 まとめ

私は地方在住で足立区は初めての体験。集合場所の神社は千住氷川神社なのですが、千住本氷川神社というのもあるようで、駅員さんに聞いても違いがよくわからないということで、断念してナビ頼りに車片側一車線の道を探索モードで歩いてようやく到達。

足立区はあまり良い評判がないらしいですが、今回の会場に関する限りとても閑静で良いところだと感じました。

汎用的なコンサートホールでの演奏ではなく、場所にふさわしい音楽(あるいは音楽にふさわしい場所)での体験は、一生忘れないと思います。

どうしてプログレから離れちゃったんだろう(市川哲史氏へ)

70年から続く批評系音楽雑誌「ロッキング・オン」のプログレッシブ・ロック(以下「プログレ」)担当(?)市川哲史氏が出版した「どうしてプログレを好きになってしまったんだろう」を、発売から相当経って読了しました。

市川氏の過去のインタビュー記事を元にプログレの栄枯盛衰を綴った本といえますが、読了と同時に相当熱心なプログレマニアだったはずの自分がどうして今プログレから離れていったのかが明快に見えた気がするので、そのことを書いてみます。

 

どうしてプログレを好きになってしまったんだろう

どうしてプログレを好きになってしまったんだろう

 

 70年台の洋楽シーンの大半は深読みと妄想である

日本での洋楽受容が本格化したのは1970年台半ば以降のことで、プログレもハードロックもパンクもレゲエもごちゃまぜになって情報が入ってきたわけですが、市川氏によればひときわタイトルや歌詞の深読みがひどかったのがプログレです。(歌詞については酷い誤訳があり、それに対しての深読みが増し加わります。)

それに便乗したレコード会社がもって回った邦題とレコードの帯の煽り文句を付けるものだから、「俺達はハードロックファンなんかと違って思索的かつ学究的なんだ」という歪んだエリート意識を涵養させていたというのが実態です。

極端にいえば、自分たちだけが「世界の真理」とか「宇宙の法則」とかに到達できるとでも思い上がっていたのかもしれません。

しかし、それはやはり幻想でしかなく、プログレも音楽のいちジャンルなのですから、次第に幻想が醒めていくと、そこには重厚長大で奇妙な音楽があるだけでした。

 


プログレが失速していった頃に自分は何をしていたのか

1980年前後は「プログレ冬の時代」と呼ばれていて、何もプログレだけではなくロックそのものが魅力を失いつつあったわけですが、その頃、自分はジャズ・フュージョンと並んで、シュトックハウゼン、ベリオ、ケージなどの現代音楽のLPレコードを買うのが楽しみになっていました。

プログレという変な音楽に慣れた耳でも、現代音楽の奇矯な響きはかなりの違和感を与えましたと同時に、それらの音楽には世界の真理も宇宙の法則も何もありません。音楽は音楽です。

また、その「プログレ冬の時代」と同じ頃、現代音楽は調性への回帰(昔に戻ったということではなく、それほど「奥の院」ではなくなったということです。)がありました。

そのほか、キース・ジャレットを擁するECMもありますし、ちょっと情報レーダーを駆使すれば、意欲的な現代音楽やジャズはたくさんありました。

過去の名作と最近のそのような作品の洪水の中で収取選択していくうちに、プログレのことなど忘れていたというのが正直なところです。

 

iTunesSpotifyの衝撃

2001年にAppleiTunesを発表したと同時に、私は所有していた数百枚のCDを全部リッピングして、ハードディスクに格納した上でCDはすべて売ってしまいました。今で言うミニマリストの先駆けですが、ハードディスクは冗長構成にして失うことがないようにする必要がありましたから、大容量とはいえ原始的なRAID装置を必要とするので、必ずしもモノが一掃されたわけではありません。

その後は、図書館やツタヤなどでのレンタルでコレクションを整理していったわけですが、 そうなるとプログレッシブ・ロックもジャズも現代音楽も自分流のジャンル分けが可能になりますので、ビル・ブラフォード、アラン・ホールズワースソフト・マシーンジャコ・パストリアスなどを好みのリストに入れて、一応、少しだけプログレのことも思い出すようになりました。

その後、iTunesにはGeniusと称されるお好みリスト作成機能が搭載されるようになって、あまり自分ではそうしたことはやらなくなったものの、音楽への関心はより増したように思います。

そして、2010年代にはついに配信への移行が始まり、ここにおいてハードディスクは全部廃棄され、2018年現在、私の音楽視聴環境はAmazon FireTVまたはiPadBluetoothスピーカーでSpotifyを鑑賞するだけになりました。

 

そしてプログレはどこに行ったか

プログレはアート・ロックという別称もあったぐらいで、芸術志向が高いうえに触手も長いので、現在どこかの弦楽四重奏団ショスタコーヴィチの全集とプログレを同時に演奏していたり、別の四重奏団がピアソラアルヴォ・ペルトを同時に演奏したりする中、いつでも聴ける「プログレ"名盤"」は名盤の役割を終えつつあるように思います。(名盤の中にも結構存在する「捨て曲」にまで律儀に付き合わなくても良いのですし)

世の中には「プログレ原理主義」なる思想があるらしく、これはクラシックの「ドイツアカデミズムが至高でその他は亜流。現代音楽は雑音」とかジャズの「モダンジャズは50年台に限る」というのと同じ偏狭な発想ではないかと思います。

そうしたわけで、今の私にとってのプログレは懐メロでもあり、今聴いている数多の音楽のあちこちに見出される分子のような存在でもあります。

純粋信仰とかいう堅苦しい箍を外せばより広い世界が広がるでしょう。

今日から無期雇用社員になりました

就活といっても、もう遠い昔の話。やりがいも潤沢な給与も要らないから安定した雇用だけを求めて寄らば大樹の大企業に入社してはや幾星霜。

確かに、クビも倒産もなかったけれども、代わりに待っていたのは地獄のような繁忙転勤。

行く先々で余所者扱いされるのはまだ良いほうで、「もうお前は永久に地元に帰らずこの澱んだ田舎町で暮らしてここに骨を埋めろ」とばかりの恫喝じみた無言の圧力にさらされ、気候の違いや田舎の閉鎖性などに疲れ果てて退社。

やっと今の会社に拾ってもらって転勤のない契約社員としてつとめだして5年。晴れて定年までこのまま働ることができる「無期雇用社員」になりました。

 

雇用の流動化をやってはみたものの、社会混乱を招いただけだったのだと思いますし、安倍政権時代に実現した各種政策の中では評価に値するものだと思います。


あらためて90年台の就職氷河期と中高年リストラの憂き目に遭った人は気の毒だと思います。特に氷河期世代に対しては何らかのポジティブアクションを行って、救済手段を講じないと、新たな社会不安を招くだけだと思います。

そういうわけで、今日は自分にとっても復活祭(イースター)になりました。

 

ウィントン・マルサリスがいかに素晴らしいか(またはつまらないか)に関する件

ウィントン・マルサリスは押しも押されぬモダンジャズの巨人と目されながら日本では皆目人気がない、場合によっては無視に近い扱いを受けている件について、自分も実はあまり彼の演奏が好きではなかったのですが、聴かず嫌いなのかもしれないと思って、改めて本気でマルサリスの全作を聴いてみました。

通常、評論家でもない人間が大して興味のないミュージシャンの作品全部を聴くなどというのはCD時代には金銭的に不可能なことでしたが、そこは天下の音楽配信サービスSpotifyのおかげで可能になりました。

その前に、まずウィントンがデビューした頃(80年台)の日本のジャズ受容の状況について回顧とともに、書いてみます。

 

マイルスとウィントンとスイングジャーナルの日々

1980年台、いわゆる電気ジャズが隆盛を極めており、「日本人が聴きたい4ビートアコースティックメインストリーム(?)ジャズ」なるものは、もはや日本企画で海外ミュージシャンに演奏してもらう以外に方法がないという状態でした。

当時の私、今にして思えば消えかかったろうそくのような存在だった薄暗いジャズ喫茶で日々を過ごす学生でしたが、そういう店には必ず常備されていたスイングジャーナル誌から得られる新譜情報が唯一の情報源でした。

そこで紹介されている「新譜」は、本国アメリカでは数千枚しか売れていないんじゃなかろうかという極めてマイナーなブルーノート復刻レコード、復帰したマイルスとウィントンの方向性の違いの論談、そして日本企画のジャズアルバム礼賛でした。(例外として、キース・ジャレットのスタンダーズトリオもありましたね。「キースがやっと正気に戻ったw」みたいな論評でした。)

マイルス・デイビスは復帰したとはいっても本調子ではなく、復帰第一作「マン・ウィズ・ホーン」の最終曲「アーシュラ」がたまたま4ビートナンバーだったので、「いよいよマイルスがアコースティックに戻る!」「60年台クインテット復活か!」などという憶測が流れては消えていきました。


Miles Davis - Ursula

さらについでに、80年台にちょっとしたブームだったウインダムヒルレーベルのアルバム(今でいうヒーリング/ニューエイジのような音楽)も、扱ってくれる雑誌がないものだから、仕方がなくスイングジャーナル誌が特集していました。当然クソミソにけなされていましたが。

マイルスVSウィントンの対決(のようなもの)については、いろいろと談義がされていましたが、ウィントンの音楽に対する不評の内訳は次のようなものでした。

・音数が多すぎる。
・上手ければよいというものではない
・アコースティックジャズだけれどもメインストリームじゃない
・若造である(レコード鑑賞の文化が長い日本人は伝説の巨匠が好き)


どれも一理あるのですが、ウィントンのトランペット奏法がジャズ界では前代未聞なものも多かったですし、クラシック演奏でも達人でしたから、やはり生粋のジャズファンには嫌われる要素が満載だったとしかいえず、スイングジャーナルの人気投票でもトランペット部門の第一位はマイルス・デイヴィスが譲らなかったはずです。

ウィントン・マルサリスの新しい聴き方の発見

ウィントンのトランペットの技量を堪能するには、リー・モーガンクリフォード・ブラウンマイルス・デイヴィスと同列に並べるのではなく、クラシック方面の名手の演奏と比較すると、意外なことにしっくりと耳に入るのです。

・アリソン・バルサ
・ホーケン・ハイデンベルガー
セルゲイ・ナカリャコフ
・ティーネ・ティング・ヘルセット
マルクスシュトックハウゼン(この人はジャンルが不明ですがECM系とでも言えばよいかと)

など。

これらの人々の演奏といっしょにウィントンの音源を片っ端からプレイリストに入れて聴いてみますと、ウィントンの超絶技巧がジャズという形の中でどう表現されるのかがわかります。



angel eyes - wynton marsalis

 

 試しに1曲、このもっぱらバラードヴォーカルとして演奏されることの多い「エンジェル・アイズ」
相当長いトランペットのカデンツァが置かれたあと、ピアノのみの伴奏で一応のバラード演奏としてテーマ吹奏。リズム隊が割りと派手に入ってきて、そのままアップテンポのソロパートに入ったあと、やはりカデンツァで締めて終わるというものです。

そのほか、どの演奏だったか忘れましたが、リップスラーフラッタータンギングとカップミュート開閉の絶妙な組み合わせでほぼ同じ音程を延々と吹いてみせたり、相当に計算されたハーフバルブ(?)をカマしたりと、たいていの人はこういうジャズトランペットを聴いたことがないものだから、そりゃそう簡単に惚れ込めません。

あと、話題になった「世界最速チェロキー」はこちら。(余談ですがこのトランペット変わった仕様ですね)


WYNTON MARSALIS "CHEROKEE"

 

リンカーン・センター・ジャズ・オーケストラについて

ウィントンが音楽監督を勤めるこのオーケストラではアフロ・キューバンジャズやゴスペル、モンク作品集、コルトレーンの「至上の愛」のリメイクなど、さまざまなことをやっているわけですが、まっさきに聴いたアフロキューバンジャズアルバム「Live in Cuba」を聴いて真っ先に思ったことは、「ああ、ウィントンにはジャズに対するこだわりみたいなものがないんだね」ということです。

オーケストラだからウィントンの演奏かどうか定かではないのですが、かつてのガレスピーのように音圧最強音量最大でハイノートを出していて、ウィントンの技量をもってすれば、わざわざそういう奏法をしなくても普通にハイノートが出せるはずなので、「この音楽にはこういうハイノートが必要だから使っている」というように聴こえます。

この辺が村上春樹をして「前戯ばっかりうまい男みたいで信用ならん」と云わしめるところなのでしょう。

 

 それで私はウィントンを好きになったか

 クラシック音楽、現代音楽またはアメリカ古典音楽として聴くと楽しめるというのが正直な感想です。では、「ジャズではない」のかといえば、おそらく多くの日本人が好んで聴くジャズではありませんし、そういうのは50年台から親しまれてきた膨大なジャズアルバムが今もリマスターを重ねて販売されているのですから、日本のジャズファンはそういうアルバムをずっと聴いていればよいのでしょう。

とくに結論らしきものも出なかったので、日本人にこよなく愛されているケニー・ドーハムの「マイ・アイディアル」と、同じ曲をウィントンが吹いたものを比較試聴してこの文章を締めたいと思います。


Kenny Dorham - My Ideal

 


Wynton Marsalis - My Ideal