述而不作 いにしえの未来

占い師の見てきた世の中を語ります

蕩尽の哲学 葬式代が何故高かったのか

葬式代が何故高いのかについては、坊主が金儲け主義だからとか、斎場が仲介してマージンを取るためだとかいう説があって、確かにそれは当たらずとも遠からずであろうとは思います。

 

ほとんどの場合、僧侶を呼んで仏式で葬儀をあげるのでしょうが、実は寺のほうでも、遺族がその寺の檀家であって、少なからず付き合いがあった場合には、それほど金銭は要求しないことが多いようです。

 

私の場合、親族がいっせいに某寺の檀家で、かつ、私自身も先に父の骨堂があったため、母の葬儀のときも戒名代は不要と僧侶は言いましたし、布施もまず妥当なものだったと記憶しています。

 

すべての寺がそうであるかどうかは不明ですが、寺にとって檀家というのは「客」ですから、長い付き合いになるうえに、そのうち永代供養費を納めるかもしれない家に高額な布施を要求するほど愚かでもありません。

 

続いて、葬式代、つまりお花とか棺桶とか仕出し弁当や斎場の手間賃などの総額についてですが、質素にしようと思えば質素にできるものの、斎場から「一生に一度のことですから」と言われるとついぞ高い料金プランを選びそうになりますし、おおむね、「亡くなった人が生きようと死のうと何の関心もない」というような親戚筋に限って、葬儀の段取りに文句を云いますから、香典で元が取れる程度に豪華になってしまうのが常でした。

 

ここで、あまりおおっぴらに語られないのが、バタイユの「蕩尽の哲学」あるいは「祝祭論」です。

 

わたしたちは社会を築くことでいたるところに暴力が蔓延する世界から離れて平穏を手に入れましたが、同時にそうした世界がもたらす一体感や満足感を失ってしまいました。そこで、ときにお祭りや戦争のようなものを行ない、計画性度外視で圧倒的な資金を蕩尽して暴力的な満足感に浸ろうという欲求が生じます(バタイユはセックスもこのように説明していました)。一次的に社会を放棄する場を設けるわけです。

バタイユの蕩尽の哲学とは、このように暴力的世界への憧憬から社会性をあえて捨てて自分の持つものを使い果たすことを指す「蕩尽」という概念を使って、さまざまな社会的事象を分析する試みです。 

 引用元 http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1360669913

 

これは冠婚葬祭あらゆるところで適用できるのですが、金もかかる、手間もかかる、弔問客への挨拶はせねばならないという大がかりな葬式を出し合っていると、「こんなに金がかかって疲れるなら、俺も滅多なことでは死ねないなぁ」という形で、わりと生きている側がシャキッとなる効用があります。

 

質素な葬式をつき進めれば、直葬またはかんたんな「別れの会」をして、しんみり悲しみを噛み締めて、荼毘に付して帰って来るという形になりますから、かなりの確率で生きている側も、だらしくなくなると私は考えます。

 

死は、避けようとしてもやがて訪れるので「特別なこと/非日常のこと」の側に押しとどめておく必要があり、ある程度の祝祭性をもたせたほうが良いのではないかと私は思っています。