SNSに疲れ果てて電話に戻りたいの件(ネット黎明期の彼らはどこにいったのだろう)
考えてみれば、FaceBookやTwitterに「イイネ」ボタンが設置された時にさっさと撤退していればよかったのです。
世の中に、良い人というのは「調子の良い人」「都合の良い人」「どうでも良い人」の三種類しかなく、イイネというのもそのうちのどれかです。
もちろん英語圏ではLikeまたはLoveなのですから、ニュアンスは異なるのだと思いますが、おそらく友人(となっている)人たちを無視するのも忍びないので付けているだけです。
本当にその投稿に感心があるのならば、リツイートまたはシェアすれば良いだけですから、実は単に関心がない「どうでもいい」のイイネであろうと思います。
私を疲れさせるのは次の3種類。
(1)自分の新作発表、お店のイベント告知等以外のことを一切書かない人
もしかすると、私には共有されない部分で共有しているのかもしれませんが、そういうものだけ過剰にアピールしてくる人は、単にSNSというものを宣伝ツールだとしか思っていないようです。
(2)見知らぬ人女性からの友達申請
見知らぬ女性が突然近寄ってくるのは全部詐欺だと思っているので、鬱陶しいです。
(3)キテレツな情報商材の広告
「たった1年間で1億稼いだ」とかいう話も、全部詐欺だと思っているので、鬱陶しいです。
以上により、僕にとってSNSは「出合い系」か「詐欺」であると考えることにしましたので、今のところ疲れる要素が少ないツイッターとmixiだけにしておくことにします。
LINEも本当はやりたくないのですが、僕の同級生連中がどうしてもコレでないとダメらしいのでしかたなく「繋がって」だけいることにします。
2000年前後のパソコン通信、掲示板などをやっていた連中はどこにいったのだろうとつくずく思います。
きっと、みんなネット生活に疲れ果てて電話に戻っているのではないだろうか。僕も電話にもどりたいです。とはいってもネットと縁をきるというわけではないのだけど。
「さよならパソコンとインターネット」→「こんにちはIoT」家入一真氏へ
先日、家入一真氏の著作「さよならインターネット」を読んだ感想文を書いて、それをTwitterにシェアしたところ、著者の家入氏からリツイートされ、ささやかな感謝とともに、こうした「ご縁」もかつてのネットの醍醐味であったものだなとしみじみ思います。
「絆としてのインターネット」と「ハサミ(断ち切るもの)としてのインターネット」は、書き出してみれば圧倒的なアウェー感はあるにせよ、本質としては「文化装置としてのインターネットのあり方の変遷」であろうと思います。
心理学者の岸田秀の表現によれば、「文化とは何かの不便を解消する手段」なのだそうで、かつての濃厚なフランス料理は「新鮮な食材が手に入らない」という不便を解消するために、あのようなソースが開発されたわけですし、日本の干魚も冷蔵庫がない時代に山間の住民が魚を長期保存させるために考案した文化です。
その意味でインターネットは地理的な不便を乗り越える手段ですから、軍事用は別として、民生用のネットはかつての電話電報の拡張版であると思いますし、その意味ではそう大きな差はないのだろうと思います。
一方、「風俗としてのインターネット」を考えた時に、インターネット元年を1995年、配信元年を2015年として20年間の変遷を省みると、その圧倒的な違いに呆然とさせられることがあります。
不便を解消するための手段としての代表格とも言えるコンビニの店舗数を調べたサイトがありますが、この20年間で2倍に増えました。
貧乏人の道楽(失礼)だったレンタルCD/DVDショップも都市部にはあるにせよ、返却の手間を考えると、あまりの面倒さに足が遠のきますから、その将来は明るくはないですし、金持ちの道楽だった旅行という趣味についてもかつての憧れでもあったタヒチ島リゾートなどは、Amazonの素晴らしい配信5D映像で楽しめますから、あえて金をかけてまで行きたくなくなりました。近場のディズニーのほうが安上がりで楽しいのではないでしょうか。
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今、各社がさかんに力を入れだしているIoT(Internet of Things)は、あらゆるデバイスをインターネットに接続し、その膨大なログをビッグデータとして解析していこうということなのですが、私のこれからの人生もただの「ログ」になるのだろうなと思います。
すでに先発的に出ているスマートウォッチで、位置情報、行動情報、体調管理などが行われ、産業用で提供されているスマートグラスを併用することで、GPS誘導により目的地まで安全に行き着き、危険なものを回避したりすることができるわけです。
そのような状態になると、ふたたびデジタルデバイドという問題が浮上してきて、これまで喜色満面でスマートフォンを弄っていた人々でも、技術の進歩に付いていけなくなり、MVNOで提供を始めた電話かけ放題サービスを利用して、20世紀からやっている「長電話」が復活すると私は思います。
一方、私は、SONYのヘッドマウントディスプレイを中古で購入して、新たな楽しみを発掘中です。
おそらく9月に最新モデルが出るであろうAppleウォッチも購入する予定です。
酒とともに振り返るアナログでつまらない人生ではなく、ライフログの解析を通した自分の行動の再発見ということに考え方を変えてみれば、また新たな展望も見えるでしょう。
それでは。
(読書感想文)「さよならインターネット」家入一真 著
この数年、なぜ世の中が面白くなくなったのか、どうしてワクワクできることが少なくなったのかという、私の疑問にある程度解決を与えてくれた新書です。
さよならインターネット - まもなく消えるその「輪郭」について (中公新書ラクレ 560)
- 作者: 家入一真
- 出版社/メーカー: 中央公論新社
- 発売日: 2016/08/08
- メディア: 新書
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著者の家入氏は、かつて引きこもりとしてつらい日々を送っていたころ、インターネットという存在を通して多くの仲間に救われたという、1990年台にはよくいたタイプの人だとのこと。
一方、イマドキの若い人から、「インターネットが好きだなんて、まるでハサミが好きだというようなものではないか」という指摘を受けて、衝撃を受けたというのが、この書物執筆のきっかけになったようです。
私は、インターネットがハサミだとは思っていませんが、電気や水道のような「途絶えさせてはいけない」インフラに過ぎないだろうと思っています。
一方で、「断捨離とミニマリスト」というここ数年の流行がインターネットの最大の成果の一つだろうと私は思います。
私はかつて膨大な書籍とCDに溢れて暮らすのが快適でしたが、現在は自室の八畳一間に必要なものの全てが詰まっています。CDも書籍もありません。
断捨離は、箪笥の肥やしなっている洋服やバッグなどを一度放出させて、新しいモノを買わせようという戦略的なブームだったようですが、ミニマリストというのはあらゆる情報をデータ化して、それをクラウドに上げてしまえば、PCとスマートフォンと最小限の着替えがあれば数ヶ月くらいは住所不定でも暮らしていける世界を目指しているように思います。
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多くの仲間とつながっているのではなく、よく知っている仲間とだけつながっている手段としてのインターネットは、むしろ閉塞的ではないかという家入氏の指摘は、私も同感です。
実際、私がLINEでつながっている中学時代の同級生のうち、女子はおおむね同じ頃に結婚し、同じ頃に子どもが生まれて、同じ頃に子育てをしていますから、早晩子どもの就職や結婚の話と、孫の話と、嫁の悪口と自分の病気の話しかしない老人になるのは明らかで、なんのことはない、昭和の頃の井戸端会議の電子版でしかないだろうと思います。
かつて流行していたオートキャンプも、アウトドアスポーツも一部の愛好家だけのものになり、IT化の波に乗れなかった中年男性は「旧車會」などという無様なことをやるしかなくなり、かつて書物と音楽と映画を友としていた私は、その大半がAmazonで事足りるようになって、生きていくうえでのコストがかからなくなりました。
それに代わる新たなコストとしてプロバイダー代とMVNO代が毎月10000円ほどかかっているわけですから、もう諦めてインターネットをインフラとして存続させながら、ゆるやかに昔に戻ったのだと考えるしかないだろうと思います。
未来志向を突き詰めれば必ず過去に戻ります。
このブログも 「述而不作 いにしえの未来」というタイトルですから、私の確信もますます固まるばかりです。
ポケモンGO!は無問題 (ウォークマン1979〜Windows95 1995 i-mode1999)
ポケモンGOがケシカランというご高説が多く出ていますが、それを云っている人たちは、かつてSONYのウォークマン(1979年)やWindows95(1995年)やdocomoのiモード(1999年)で熱狂していた人たちで、そろそろ時代に取り残されていることの証左だろうと思います。
音楽を街へ持ちだそうというコンセプトだったはずですが、「周囲の人たちとの関係性を断って自閉する若者たち」とかいうようなご批判は多かったものの、まず満員電車の中で目の前数センチにいるどこの誰だかわからない人間との関係性など関心の対象外だろうと思います。
この構図は、現在もスマホ(スマートフォン)で音楽を聴きながらSNSをやっている人たちにも受け継がれています。
これがWindows95の起動ロゴ画面です。(1995年)
一部のマニアの高価な道具に過ぎなかったパーソナルコンピューターを広くお茶の間に広げたということになっていますが、記憶するところによればおそらくこれは年賀状作りの機械として普及したはずです。
これがiモードです。WIndows95はとてもじゃないけど使いこなせない人たちが「メール」という道具を手にして舞い上がっていたのを覚えています。
ケータイが普及してから、CDもマンガも小説も売れなくなったという文句があちこちから聞こえましたが、それも今や歴史になりました。
そして2016年
またぞろの批判が出ていますが、すぐに「適度な使い方」が普及して批判は封じ込められるでしょう。
LPICとITILファウンデーションとVagrantとDockerの勉強を同時に始めた件
今年度に入ってから勤め先の会社がやけに資格取得を推奨してきます。
形の上では「アンケート」なのですが、「あなたは資格取得の準備をしていますか(y/n)」「yの方に質問します。その資格は何ですか」「いつまでに取得しようと考えていますか」などという状態なので、もう資格を取らないと承知しないということのようです。
会社が取得を推奨してくるのは次の3つです。
本来私は事務系の人間なので、これからの資格には縁がないはずなのですが、早い話が「他人との差別化を図る」ことが必要だということです。
事務仕事しかできない人間の将来はそう明るくなく、生涯働き続けるならば資格(というより、その資格を取得するために勉強した知識)がないと先行きが不安なご時世のようです。
そういうわけで始めたのが、まずLPIC
Linuxシステム管理の資格なのですが、90年代後半のオープンソースブームの頃にLinuxで遊んでいたこともあり、まったく知らない世界ではありません。
とはいえ、コマンドラインのオプションなど全部覚えておらず、起動の仕組みも昔とはずいぶん違っており、昔得た知識の回復とここ10年くらいで変更になった事項の再整理を始めました。
この資格は、本当はレベル3まで取得して仮想化技術までしっかりマスターすればそれなりに面白いのだろうと重います。
LPICが一応の技術系なのに対して、こちらはサービスプロバイダーが知悉しているべきベスト・プラクティスの集大成となっており、営業系、運用系そして管理職などに向いている資格と言えるでしょう。
ただ、いかにも欧米で体系化された概念という感じで、用語の大半がカタカナ語であり、とかく英語をカタカナにしてしまうと録なことがないもので、サービスとかプロセスとかいう用語が、私の知っているそれとは異なる意味で使用されているものだから、混乱を生じること夥しいというのが実態です。
(ITILでいうサービスとかプロセスは事業の執行にかかる概念です。)
この資格は、実際にそれに準拠した組織または仕事に直接携わっている人でないと馴染みにくいようにも思いますが、一応kindleで対策本を買ったのでちらちらと準備はしておこうと思います。
なお、当社の推奨資格として「強く」取得が望まれているものは上記の2つと、CISCO系以外は、ほぼ情報処理技術者試験(国家資格)のみです。それ以外の資格はないよりはあったほうが良いとはいえ、評価が低いか全く評価されないわけですから、当面視野から外すことになります。
そして、LPICの受験に当っては実習環境の構築にあたり、Debian系とRedHat系両方の知識が問われるうえに、いわゆるLAMP(Linux Apache MySQL PHP)の環境構築が面倒だということで、出来合いの仮想環境を速攻で持ってきて使い捨てできるという、昨今流行のVagrantとDockerに手を出した次第です。
こんなシロモノなので、ハマりまくって大事になっている状態です。ネット上の情報も未整備ですし、配布元からのクラウドインスタンスもどこまで信頼して良いのやらわかりかねる状態です。
まぁ動かないこともないのですけど、当面、VirtualBox上にUbuntuとCentOSを入れて、一番わかりにくいディストリビューションごとの「流儀の違い」を整理する日々となっています。
試験に合格すれば受験料は会社から支給されて、小遣い銭ももらえるわけですが、落ちたら数万円が水の泡となるわけですので、受験料の安い国家資格のように「運試し」で受けるわけにもいかず、慎重に慎重を重ねて受けることにしましょう。
レコードと紅茶が高級だった頃(消費税の前=物品税)
年寄りの繰り言を書くのも冴えない話ではありますが、昨今世の中の主流の人たちが「消費税施行後」に社会人になっているので、それ以前のモノの価値観が今とは違うというお話を書きたいと思います。
まずはネット上の資料です。
世の中のモノの価値観は、一般に希少で高額なものほど価値が高いことになっているのですが、それはモノそれ自体の価値ではなく、価格に転嫁された税金を積み上げたものとなっています。
たとえば、1968年のレコード1枚の税込み価格は約2000円で、当時の大卒初任給が30000円程度ですから、月収の約7%となります。現在の月収20万円の人に換算すれば14000円ほどの買い物に相当します。単純計算ではそうなります。
14000円といえば、現在のCD価格レートでは4〜5枚買えるわけですけれど、そんな人が現在どれくらいいるでしょう。
日本における西洋音楽受容はレコード鑑賞が中心で、気軽に生演奏(ライブ)に行く機会が少なく、そもそも日本のクラシック音楽専門誌の名前が「レコード芸術」というくらいなのですから、日本のコアな音楽ファンがLP(CD)をありがたがって集める傾向はおそらく変わらないでしょう。
次に紅茶です。
いわゆるお茶は1000年以上昔から中国経由でもたらされていて、すでに日本文化として普及していましたが、紅茶がもたらされたのはおおむね明治以降です。(日蘭貿易の伴天連輸入物の中に紅茶があったかもしれませんが)
これは私の記憶でしかないのですが、1970年台までは紅茶に輸入制限がかけられており、自由化後も物品税が課せられていたはずです。(コーヒーは非課税だったと思います。)
よって、希少で高額なものが大衆に普及するには時間がかかり、日本の「喫茶店」で提供される紅茶も、適当なティーバッグにお湯とレモンが付いているだけだったり、ロシアンティーと称するジャム入り紅茶だったりしました。
さらに1980年頃(たぶん)に入ってから烏龍茶という中国茶(当時としてはわけのわからないもの)が輸入されてきて、茶のアイデンティティがすっかりわからなくなったころに消費税が登場しています。
なお、烏龍茶の功績のひとつは、飲み会で「ノンアルコールオーダー」の対象となって、水商売系の発展に寄与したことです。
昨今増えているようですが、居酒屋に行ってドリンクオーダーなしで水を所望する客はやはりお店としては困るわけですし、いわゆる「夜のお姉さん」たちがお客さんと乾杯をするのに、いちいち水割りを飲んでいてはやはり困りますから、烏龍茶の登場は大変良かったようにも思います。
現在、カフェに行けば珈琲、紅茶、中国茶、ハーブティその他あらゆる種類の飲み物がオーダーできますが、お店のほうもそれらを全部提供するのは不可能ですから、ある程度専門化が進んでいます。
その他、物品税に関しては、「コタツは非課税でストーブは課税、エアコンももちろん課税」というのもありましたので、真夏と真冬は冷暖房が完備している喫茶店でコーヒー一杯で何時間も長居する人がおり、いまでも関東以西の人は冬になると「ストーブなし、コタツのみ」で頑張るのが基本のようです。
コタツそれ自体が文化だから禁止することもできないのですが、決して体に優しいわけでもありませんから、冷暖房/除湿加湿/空気清浄を全部兼ね備えたハイグレードなエアコンの普及が待たれるところです。
乳幼児、老人、病人のいる世帯を対象に助成金を出せばそう難しくはないと思います。
消費税も最初の実施から25年を経過し、次年度国家予算成立を2ヶ月延期させて、最後の賛否投票の際には牛歩戦術をやって抵抗していた旧社会党も、今思い出せば国民がいい迷惑だったと思います。
最後にレコードの話に戻るのですが、レコードの後継であるCDが日本で最も売れたのは消費税施行後の1990年代です。それが果たして音楽文化に貢献したのか衰退を招いたのか、私には分かりません。
ただ、あらゆるジャンルに共通して90年台(つまり消費税施行後)は世界レベルで「新曲、新音楽は要らない」という、進歩主義を発展的に解消させる動きになりましたので、その結果として過去の未発表音源の発掘が促進され、現在はそれが飽和した状態なのではないかと思います。
消費税はあらゆる購買に対して均一課税ですから、何が贅沢で何が贅沢でないかは市場原理に委ねられることになり、それによって栄えた文化もあれば滅んだ文化もあります。本来それがあるべき姿なのでしょう。
まとまりのない文章になりましたが、以上、物品税の話でした。
評論家 宇野功芳先生追悼 中山康樹先生追憶
クラシック音楽評論家の宇野功芳先生がお亡くなりになったとのことで、まずはご冥福をお祈りいたします。
私は宇野功芳先生の本をすべて読んだわけではないのですが、比較的ポピュラーな著書を読む限り、あくまでも「音楽の感動」を語っていて、譜面を持ちだして来て、「この部分が云々」というようなことを書いていません。私はこの点をとても尊敬しています。
譜面を持ちだして解説される方は、懇切に語っているつもりなのかもしれませんが、実はビルの設計図や資材基準表を解説しているのと同じで、ユーザー(リスナー)は、その建物の使い勝手のほうが大事なのですから、なにかと乖離が生じます。
音楽であれ映画であれなんであれ、評論家というのは「特定のファン層の気持ち」を代弁するのが任務なので、そういう意味で、宇野功芳先生はヒストリカル演奏家至上主義の人たちの気持ちを代弁していたのだと思います。
きっと、敬愛するフルトヴェングラー、クナッパーツブッシュ、親交があったらしいブルーノ・ワルターなどに弟子入りに行ったのだということにしておきます。
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もうひとり、2015年に逝去された「マイルスを聴け」でお馴染みの中山康樹先生も、同じように「音楽の感動」を語る人でした。
世代的に典型的なジャズ喫茶育ちなのですが、そこに集っていたであろう極めて保守的なファンの嗜好が嫌いであるところに原点があるように思います。
ジャズ喫茶に多く棲息していた保守的なジャズファンの人たちは、60年代以降のロック、ファンク、ボサノヴァ、エレクトリックの導入あたりが全部嫌いで、そうしたものを貪欲に取り込んで独自の世界を築いていたマイルス・デイヴィスの圧倒的な影響力が怖くて、マイルス叩きをやっていることがよくありました。
そうした人たちも、先に掲げたクラシック音楽における「ヒストリカル至上主義」の人たちと性質が似ていますが、中山康樹先生はそうした人たちの気持ちは代弁しなかったと云うべきでしょう。
中山康樹先生がいくつか主張していることの一つとして「CDになったからといって、未発表の別テイクをいくつも入れることは名盤の価値を貶めることになる」というものがあり、これは実際に音楽配信の分野で改善されつつあります。
Amzon Prime Musicでは、50年代の巨匠たちの「12 Classical Albums 」というようなセット音源が会費だけで無尽蔵に聴ける状態になっています。今のところCD時代の「別テイク」というようなものは入っていないようです。
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私もさまざまな音楽のファンである以上は、自分の気持ちを誰かに代弁してほしい気はするのですが、思春期からずっと「レコード代/CD代」に相当な経費をつぎ込んできたことを、自分でせせら笑いたいと思っていますので、「配信音源最高!CDは無用!」という人と仲良くなりたいですが、少なくとも自分の同輩でそういう方は見たことがありません。残念です。